電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

ゼロ年代の本音主義

でも、昨今じゃ日本でも「身内じゃない相手なら何をやっても、何を言ってもOK」って感覚がめっきり普及したなあ、という気がする。いや、単なる右傾化とか保守化とか差別意識の蔓延というレベルの問題ではなく。
ゼロ年代の想像力』では、決断主義という言葉が使われていたが、わたしの認識では、本音主義というほうがぴんとくる気がしてきた。
決断主義的な、他者にキッパリと闘争的な態度を取る物言いが世に増えた背景には、小泉構造改革以降「しょせん世の中は強い者が勝つ」「弱者、敗者は自己責任」とか、さらに突っ込んで言えば「いわゆる『弱者』であることを利権にしてる連中はズルい」という考え方が広まったという側面があるだろう。それって本音主義ってことではないか、と。
ではなぜ、そのような本音主義が蔓延したのか?
ひとつにインターネットの影響は確実に考えられる。上記のような「本音」を、潜在的に考えている人間は少なくなかったろうが、口に出して言う機会はそうそうないはずだ。
しかし、ネット、とくに2ちゃんねるのような匿名掲示板の類を見ていれば、そのうち、そういう考えを持っているのは自分だけではないと気づく。となれば、そういう本音主義が勢いづくのも無理は無かろう。
2004年のイラク人質バッシングでの自己責任論の噴出は、まさにそういう感じか。
ただ、今にして思えば、自己責任論が蔓延した理由には、それが最新の流行潮流だからというだけでなく、昔から日本人には、庶民的感情のレベルで「人様の世話になるのは恥」という意識もあったからではないかとも考えられる。
さらに当時、小泉政権が支持されていた時期には、堀江貴文という「人の心はお金で買える」「女は金についてくる」とかいった本音をわかりやすく象徴するスターもいた。
そういう本音は、従来、本音ではあっても、大声で言うのははばかられるものだった。
かつては、企業とは額に汗して地道にモノを作ったり、職場の同僚や取引先と長年の信頼関係を築きあげるもので、いくら金があっても、札束(株券)でいきなり経営権を買おうとするような人間は、嫌味に思われこそすれ、尊敬はされなかった。ところが、何しろ当時は権威ある大人のほうが、やれ規制緩和構造改革だと言ってそれを肯定してしまった。
ホリエモン個人は逮捕され失墜したが「『人は金についてくる』でいいんだ」という思考は世に定着してしまった。それは転じて、企業が人を長く雇って育てず派遣切りに走るのも仕方ないんじゃないかという空気になった。あとの祭りである。

「この軍事裁判法廷は、日本側の非行を裁く目的で開設されたものである。連合国がこの戦争中にいかなる行為に出たとしても、それはこの法廷でとりあげるべき問題ではない――」
 法学部の学生として、このウエップの一言を聞いたとき七郎は、連合国の官軍意識に大いに反発を感じたものだったが、それはまた彼と同年輩の青年たちが、共通して抱いた感情だったろう。
『法は正義なり』
 という法律の根本思想に、大いに疑惑を感じたからだ。
 その結果として、彼の心に生まれたものは、
『法は力なり』
 という思想であった……。
 法律が正義でないならば、力をもって、それを踏みにじることにも、良心の呵責は感じないですむ。

高木彬光『白昼の死角』

昨今の若者の保守化とか右傾化とか媚権派(そのとき権力を握っている者が正しいという思考)とか言われるものの背景は、結局そういう本音主義ではないかという気もする。
だが、この手の本音主義ばかりが蔓延した世界とは、要は、近代的な福祉政策やセーフティネット以前で生存闘争がくり返される無法時代である。さしずめ東南アジアや中南米やアフリカの貧困国は、今も昔も本音主義であろう。そんなんがうらやましいか?
人間は、というか文明人は本音だけでも生きられない。
そして問題は、その本音主義を自分にも課しているかだ。
「しょせん世の中は強い者が勝つ」「弱者、敗者は自己責任」であっても、だからって他人へのツッコミばかりで自分がちゃんとしなくて良いわけではない。今や社会は存在しなくても同様。