電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

パッチワークされてきた「愛国」

浅羽通明ナショナリズム 名著でたどる日本思想入門』が文庫化(isbn:4480430512)。昨年やってた浅羽公開講座が再開というのでようやく読む。
ちなみに、2004年に旧版が出た当時の感想文はこちら
なにしろ9年前の刊行だけに、各章末の「読書ノート」コーナーを中心にけっこう加筆されている。
たとえば、日本の風景に対する愛着、愛郷心を論じた「第四章 ああ、日本のどこかに――国土のナショナリズム」の章末では、志賀重昂が『日本風景論』で展開した日本の象徴としての富士山礼賛について述べていた。
文庫版ではこれに結びつけて、架空の戦後史を描いた矢作俊彦の小説『あ・じゃ・ぱん!』では、アメリカ軍の原爆投下で富士山が破壊されたことが作中での日本人には大きな屈辱になっている点に言及。さらに、同じ図式がアニメ『コードギアス 反逆のルルーシュ』でも、他国の占領によって富士山が資源採掘のため削られた風景として出てくる点を指摘……ってこれ、俺が4年前にコードギアス本の『クリティカル・ゼロ』(isbn:4877770933)で書いた話と同じじゃねえか!? と笑う。
さらに、国土のナショナリズムとくれば当然のように昨今の竹島問題、尖閣問題にも付記。ただし、同じ他国との係争地でも、北方領土にはかつて多くの日本人が住み、終戦時には旧ソ連軍の侵攻で最前線になったのに対し、住民もほとんどおらず、漁業や資源利権が争点の竹島尖閣は、愛郷心の情に訴える「物語性」に欠けるという指摘は意外な視点だ。
はたまた、大衆文学や少年マンガで多く見られる、努力と恨性・天下獲りという武断的ヒロイズムを論じた「第七章 少年よ、国家を抱け――男気のナショナリズム」の章末では、文庫版で新たに五十嵐太郎編『ヤンキー文化論序説』(河出書房新社)や、斎藤環『世界が土曜の夜の夢なら――ヤンキーと精神分析』(角川書店)などに言及。
さらに、学校の体罰や体育会系の気合主義を好むヤンキー的メンタリティは今に始まった話ではなく、表層的な地域共同体や暴走族文化などの衰退にも関わらず、深層においては変わっていないと指摘する……でも、その理由までは説明されてない。

身体から遠く離れて

そして「文庫版あとがき」では、昨今のネット右翼ネトウヨ)にも付記しているが、これは簡潔によくまとまっている。

彼らの過剰なナショナリズムと見える行動は、そのほとんどが情報環境のレベルで終始している。学校とマスメディアによって、平和と反差別、国際協調を、疑うべくもない優等生文化の良識として刷りこまれて育ったポスト高度経済成長期の日本人、そんな世代が、思春期以降、過剰となった自意識を、「社会的政治的に正義を担っている戦士」を自ら任じる方向で満足させようとする時、ナショナリズムの称揚、近隣諸国の日本非難への反駁はまとうに恰好の衣裳だった。(369p)

――っておい、それじゃ、1970〜80年代の不良暴走族が、日教組的マジメ教師の真逆の価値観を気取って特攻服や日の丸はちまきを愛好したのと同じじゃん!!
浅羽先生はそこまで書いてないけど、こういうメンタリティ、日本に限った話ではない。佐原徹哉『ボスニア内戦』有志舎(isbn:4903426122)などによると、旧ユーゴスラヴィア内戦では、セルビア系とクロアチア系それぞれのフーリガンが民族対立を煽っていた。彼らにとって、建国者チトーの掲げた民族融和はいけすかないマジメ優等生の価値観で、堂々と他民族を罵倒するオレって過激でカッコいい……というノリだったらしい。
さらに、こんな指摘もされている。

日本のネット右翼ナショナリズムは、きわめて知識的で観念的であるのを特徴とする。それゆえ、私が本書第七章で本宮ひろ志のマンガを素材に摘出した、ヤンキー的な身体性もほぼ脱臭化されている。いわゆる「在日」に対する嫌悪などにその残滓と思える生理的なものが窺えなくもないが、かつての日常生活と骨がらみとなった差別意識と比べれば、それも希薄というほかない。(370p)

これをもっと端的に言えば、昨今のいわゆるネット右翼は、自分たちを清潔な近代人と位置づけ、韓国・中国や在日に「アジア的前近代・不潔・暴力」を見出すがゆえに嫌っているのではないか? (だが、それは少し昔の日本人の姿と同じだ)。果たして「キムチは嫌いだが沢庵や納豆やぬか味噌は大好き」という人はいるのだろうか?
加えて、こんな耳の痛い一節も出てくる。

ネット右翼やその周辺が、血まなこで守ろうとするのも、知識、情報の集積として彼らのなかに在るもう一つの「日本」であろう。そして、それこそは『WiLL』『正論』などの保守系論壇誌小林よしのりの諸作、山野車輪嫌韓流』そのほかで得た歴史知識、時事情報でバックアップされた彼らの「アバター」自意識の城でもある。
それはむろん、リアルな日本とは別のものだ。リアルな日本は彼らではなく、エリート官僚や財界産業界から警察、自衛隊までの現場を担う人々が日々、自らの生活をかけて守っている。(372p)

ただし、べつに本書はまったく中国・韓国や在日の肩を持っているわけではない。
一方では、古田博司『東アジア「反日」トライアングル』の論点を紹介し、今の中国や韓国の反日は「近代の途上にある国家ならではの粗野なナショナリズム」で「日本ならさしずめ日清日露日比谷暴動の類」とし、そんな彼らの挑発を真に受けることに「中二病を前にして、自らも中二病を再発させてどうなるというのだ」と述べている。
――以上、文庫版で加筆された箇所を重点的に語ったのでいささか偏った書き方になったが、本来この本は、風景や郷土への愛着、軍隊や会社組織で生まれる連帯感などなど、実体的な事例を挙げて、日本人のナショナリズムがいかに育まれたかをふり返る本だった。それを考えれば、文庫版あとがきの論点ももっともだろう。