電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

ハラキリは別腹

しばし前「日本の人権は中世なみか?」という話題が出た。

国連で「シャラップ」日本の人権大使、場内の嘲笑に叫ぶ(2013.6.14 08:14)
http://sankei.jp.msn.com/world/news/130614/erp13061408180002-n1.htm
http://blog.livedoor.jp/goldennews/archives/51791316.html

2012年に起きたPC遠隔操作ウイルス事件の捜査過程では、無実の容疑者に対して「虚偽の自白の強要」が平然と行なわれている。そら近代国家とは思えんわ。
さらに言えば、日本の人権概念が諸外国と違うところは、まず第一に「(中国の反体制デモ弾圧みたいに)公権力が人為的に人権侵害をやってるのでなければ良い」という考え方ではないか。ブラック企業の詐欺的雇用など、民間に起きる人権侵害の放置も公権力の責任のはずなのに、それは私企業の「私的領域の問題」として黙認される。
日本の人権概念の第二の特徴は、法的な価値観と別次元で世の人々の間に「切腹の思想」が生きてることのような気がする。
つまり「みっともないことをした奴は死なないといけない」「死んで責任を取った奴は罪に問わない」って考え方。日本の一般人に死刑存続派が多いのも多分そのためだろう。
だが、人権ってのは、対象となる人間がどんなクズでも人格とか品性と関係なく一律平等に与えられるから「人権」なのだ。
それと別次元に、美意識として「みっともないことをした人は腹切って死ね」って感情があるのは良いのだが、日本ではそういう「生き方の美学」みたいなものと、「法的な人権概念」を無理にでも一致させようとするから、話がこじれてるんじゃないのか?
確かに、もともと人権なんざ近代のフィクションであって建前である。近代以前からある地縁や血縁による共同体の助け合いやらで人が最低限の生活を送れるなら、人権だの生存権だのを明文化する必要もなかろう。
だが、昨今の保守論者は、地縁や血縁による共同体を必然的に解体する「なんでも自己責任」の新自由主義を一方で推進しつつ、社会保障は削減しようと言う。虫が良すぎる話だ。