電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

10.ルポ『奇蹟』

曽野綾子:著(isbn:B000J8UNK0
本年2月、アパルトヘイト擁護のごとき発言で叩かれた曽野だが、スクールマーケット浅羽通明辻説法で「曽野の作品でもこれだけは本当に凄いぞ」と勧められた一冊。1973年刊行の作品だ。
第二次世界大戦の末期、ナチスの収容所で囚人の身代わりとなって処刑されたコルベ神父が、その後カトリック教会によって「聖者」に列される過程を追ったルポだ。
本書中の(つまり42年前の)曽野は、あまり信心深いとはいえないクリスチャンを自認しているが、コルベ神父はまさしく、迫害や苦難をむしろ神の試練として喜ぶタイプの筋金入りの信心の持ち主だった。そんな神父の姿にびびる心情が正直に記されている。
ナチスの収容所は人間性を破壊することが目的だったが、それにまったく屈しない人間の姿こそ、収容所の管理者の面目を潰す存在だったろう。
本書中の曽野は、戦後にイタリアの貴族がコルベ神父の御絵に祈ったら病が治ったという「奇蹟」をどこか疑っている。実際に病気は快癒したが、偶然かも知れない、当人もそれを吹聴はしていない。しかし、故人の人徳のゆえか、人々は「奇蹟」を信じようとする。そして、皆がそれを本当に疑わなくなれば「奇蹟」は本物になってしまうのだ。
さらに、こうして死後なお人々の崇拝を得た人間は、いわば死後も信徒たちのなかで生き続けることになる。コルベ神父の肉体だけを殺したナチスの収容所は完全な敗北者だ。
なるほどこれは本物の宗教の凄さというものを感じさせる一冊であった。ただし、本書の醍醐味は執筆当時の曽野にはまだ信心と不信の間で揺れる心の葛藤があったゆえだ。もはや自分の発言に揺るぎない自信を持つようになった人間では面白くない。