電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

薔薇様は非民主的

深夜アニメの『マリア様がみてる』を見る。『少女革命ウテナ』みたいに時代錯誤でバロックな学園をわざと演出でやってるなら楽しめるが、こいつは何だかな…。
しっかし、こんなことを大真面目に論じる奴は絶対に誰もいないだろうから敢えてわたしが大馬鹿なことを書いてやるが、この作品の世界観は恐ろしく保守反動的(笑)である。
だって、社会に出れば1歳や2歳の年の差なんざ大した意味はないのに、偉大な先輩が未熟な後輩を指導するという年功序列価値観に、生徒会の人選が、民主的な選挙に拠らず先代役員が一人で勝手に選んだ後輩(妹)を信任するというシステム、父権的な男性キャラを一切排した結果「人徳ですべて丸く収まる」という理不尽、基本として先輩(姉)キャラの方が外見的にも背が高く性格的にも攻っぽく描かれ、下克上的雰囲気は少ない。
――んが、そんな、もはや現実にはあり得ない、旧制女学校風先輩後輩愛の世界が(あり得んと分かった上で)、21世紀のオタクに男女問わず大人気を博しているわけである。
ま、わたしは別に構わないが、先月取り上げた荷宮和子大塚英志みたいな、大真面目に「漫画やアニメやゲームは女子供のものだから、イコール反暴力的反権力的民主的内容であるべき」と思いたがってるインテリはこの事態を批判しないのか? と言いたい(笑)

地位と権力があっても手に入らないもの

たかがコバルト文庫じゃねえか、と言うなかれ。少女小説の読者には、現世じゃ実力の立身出世が見込めないから人間関係による解決(良い先輩や友人との出会い)の物語を求める、っていう構図は不滅だろう(無論、一方に実力で成り上がる物語もあるだろうけど)。
『大航海』ファンタジー特集の話の時も触れたが、無力な庶民大衆は、それゆえ「高貴なもの」に憧れ、期待し、それを慕う。これはいくら左翼インテリが、万人平等の近代の価値こそが正義、と唱えようと変わらんのだよ。民衆の願望の中に需要があるんだから。
そういえば、先日取り上げた『枯木灘』の浜村龍造も、元々どこの馬の骨とも知れぬ男だったのに、紀州熊野の路地の地域経済を握るや、自らを、かつて戦国時代に鉄砲衆を率いた浜村孫一(司馬遼太郎『尻啖え孫市』のモデル雑賀孫一のことであろう)の子孫と称して、孫一の石碑を立てて自らのルーツを捏造しようとしてた。
しかしこの浜村龍造の心理もわからんではない。
浜村龍造はもともと、地元の大地主で材木商の佐倉の手先として、敗戦直後の混乱期に路地の家々に放火して再開発の下地を作るという、満州国建国正当化のため自ら「不逞満人」に扮して在留日本人を襲撃していた甘粕正彦のごとき、ダーティ・ワークに携わっていた。佐倉は自らが財を成すためのそんな汚れ仕事を、よそ者の浜村龍造にやらせ、ところがいつの間にやら浜村龍造は親分の佐倉を食うほどの実力者に育った。浜村龍造は、路地を離れることが出来ないのに路地を憎んでもいる地域住人の願望を代行したまである。が、本来よそ者の彼は、畏怖されても敬愛はされず「蝿の王」などと呼ばれ、そこで財力によって自らのルーツを捏造する……
現実的な金が力があっても手に入らないもの、それが天与の高貴さなのだ。浜村龍造はプチ田中角栄なわけだが、菅孝行によると、角栄はついぞ昭和天皇には嫌われていたらしい。

マリア様のこころ――成り上がりは許さねえ?

と、そんなことを考えててふと思い出したのが、イタリアの独裁者ムッソリーニの話。なんでも、ムッソリーニが政権を取ってから、ファシスト党の連中は、気を利かせたつもりで、自分達の統領は実は貴族の末裔だとかいう歴史資料を捏造しようとしたのだが、ムッソリーニはそれを断固退け、自分の実家(記念館になってたそうだ)の壁に「ムッソリーニ家は、代々自分の手で畑を耕してきた一族である」と書かせたそうで。いい話だ。
しかし、ムッソリーニがこんなことをやった理由の一つは、当時イタリアには、彼の上に国王とローマ法王がいたからじゃないかと思う。そんな天与の権威が既に他にあれば、付け焼刃の捏造なんざ意味ないと潔く居直ったということなのではないか、とね。
が、そんな彼は本来の出身階級を裏切らなかったとも言えるわけで、そんなところが、この独裁者が、冷戦体制崩壊後のイタリアでは、ヒトラーとは全然違う意味で、一部では本気で再評価されてる理由の一つなのかも知れない(彼の最大の失点はヒトラーと組んだことで、それさえなければ偉大だったという声は多い)。
――で、結局お前『マリみて』では、誰が萌えなのかよ、って? いや実は俺も一番偉そうな蓉子姉様が…とか思いつつ、二年目に入ってやっと登場の、人徳という理不尽に苛立つ瞳子と、先輩を押し倒す下克上の可南子という二人の近代人(笑)に期待したい。