電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

地位と権力があっても手に入らないもの

たかがコバルト文庫じゃねえか、と言うなかれ。少女小説の読者には、現世じゃ実力の立身出世が見込めないから人間関係による解決(良い先輩や友人との出会い)の物語を求める、っていう構図は不滅だろう(無論、一方に実力で成り上がる物語もあるだろうけど)。
『大航海』ファンタジー特集の話の時も触れたが、無力な庶民大衆は、それゆえ「高貴なもの」に憧れ、期待し、それを慕う。これはいくら左翼インテリが、万人平等の近代の価値こそが正義、と唱えようと変わらんのだよ。民衆の願望の中に需要があるんだから。
そういえば、先日取り上げた『枯木灘』の浜村龍造も、元々どこの馬の骨とも知れぬ男だったのに、紀州熊野の路地の地域経済を握るや、自らを、かつて戦国時代に鉄砲衆を率いた浜村孫一(司馬遼太郎『尻啖え孫市』のモデル雑賀孫一のことであろう)の子孫と称して、孫一の石碑を立てて自らのルーツを捏造しようとしてた。
しかしこの浜村龍造の心理もわからんではない。
浜村龍造はもともと、地元の大地主で材木商の佐倉の手先として、敗戦直後の混乱期に路地の家々に放火して再開発の下地を作るという、満州国建国正当化のため自ら「不逞満人」に扮して在留日本人を襲撃していた甘粕正彦のごとき、ダーティ・ワークに携わっていた。佐倉は自らが財を成すためのそんな汚れ仕事を、よそ者の浜村龍造にやらせ、ところがいつの間にやら浜村龍造は親分の佐倉を食うほどの実力者に育った。浜村龍造は、路地を離れることが出来ないのに路地を憎んでもいる地域住人の願望を代行したまである。が、本来よそ者の彼は、畏怖されても敬愛はされず「蝿の王」などと呼ばれ、そこで財力によって自らのルーツを捏造する……
現実的な金が力があっても手に入らないもの、それが天与の高貴さなのだ。浜村龍造はプチ田中角栄なわけだが、菅孝行によると、角栄はついぞ昭和天皇には嫌われていたらしい。