電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

保守系論調の中身とは

http://d.hatena.ne.jp/kikori2660/20040807

懐かしいと言えば、はてなユーザーの言論状況を見るとまるで一昔前(五年ほど前)の政治系討論ページを思い出してしまうな。あの頃は2chは無かったはずだし、ネット界全体が現在のように保守系論調が強くなるとは想像もしていなかった。西村眞悟が所謂“核武装発言”をして物議を醸し、防衛政務次官をクビになった頃である。しかし今では普通に与野党の議員が改正を口にしてもヒステリックな攻撃を受ける事もなくなったどころか、核武装の検討を提案してもそれだけで役職を辞任する必要も無くなった。時代は変わるものだ。

これは貴重な歴史証言である。
まあ、この五年ほどの間にこれだけネット世論保守系論調が強くなった契機のひとつは確実に、小林よしのりゴーマニズム宣言 戦争論スペシャル』だろうとは思う。
が、以前も書いたが、今やその小林よしのりさえ、彼の風下に育った最新のネット右傾論客には追い抜かれ、まるで尊敬もされてないんじゃないか、と感じる。
http://d.hatena.ne.jp/gaikichi/20040430#p2
先日、最初に引用した一文に触れる少し前、小林よしのりより自分の方がずっと以前から極右だと称する方を目にしたが、で、その「極右」たるゆえんは何かと言えば、大東亜戦争をどう見るかとか、自衛隊についてとか、領土問題とか、大局的な歴史認識や政策についての意見は何もなく、ただ俺は中国人朝鮮人はずっと以前から差別してきた、ということだった……ハア、そりゃ「極右」じゃなくてただの「差別萌え」じゃないんですか?
どうも2004年現在の自称極右とは、大東亜戦争肯定(=反米思想肯定)だの国民皆兵だの、それを突き詰めれば、避けがたく現状の自分が足場にしてる豊かな戦後平和日本を否定し、自分が血も汗も流さねばならないような意見は口に出来ず、でもできるのは中国朝鮮批判、ということなのだろう。
何やら、政権獲得直後のナチスが、公約として掲げてたヴェルサイユ体制の即時破棄、百貨店の規制(中小小売業者優遇)などの政策はすぐには実行できなかったが、ユダヤ人いじめだけはできたってのを彷彿させるような……
と、いうわけで、結論から言うと、わたしの見解はこういうことである。
ネット世論は保守化、右傾化したのではない、単に、差別がブームになっただけじゃないのか?と。
以下「この五年ほど前」と今と何が変わったのだろうか、と振り返ってみる。

98年以前のネット世論を覚えてますか?

確かに、自分の記憶にある限りでも、97〜98年当時は、まだ大局的な歴史認識や政策観でも、大東亜戦争肯定や国防に関するタカ派意見は生理的拒否を受ける傾向があった。また、ネット上で偽悪的な暴言を書いた人間に、誰かが「それは差別だ」と指摘すれば場の雰囲気として正当な糾弾が成立するような雰囲気があった。要するに「差別は良くない」に一番端的に象徴される人権思想とか戦後民主主義価値観の方がまだなんとなく漠然と影響力があった。で、わたしとか、90年代前半初頭から呉智英とか愛読してたクチだから確信犯的に「ハイ自分は差別者です」と居直る人間の方が少なかったものである。
論壇系のサイト自体数がまばらだったが、特に保守系論客が強く目立った記憶も無い。
そんな中、98年に『ゴー宣 戦争論』が出て、以後、徐々にながら、雨後の筍のごとく、小林よしのりフォロワーの、大東亜戦争肯定、戦後民主主義左翼批判系のWebサイトが増えた。
それと、同じ98年頃ネットで「差別肯定」の先鞭として出てきたのが、高卒ドキュン差別のマミー石田だった。彼の出現背景ってのは、つまり、当時はまだネット内でも「差別は良くない」人権ヒューマニズムの方がタテマエ上主流だったんで、それを真っ向から否定し派手に差別を唱え偽悪ポーズこそが過激で、先鋭的、目立つ、斬新ということであろう。
まあ、欧米のパンクスの一部が過激さや尖鋭さを目指して、敢えてナチスを称揚する偽悪差別スタイルを取ったのと同じようなものかと。だが、至極残念なことに、過激な差別主義者を気取ろうにも日本にはユダヤ人も黒人もいない(笑)、日本の被差別者として部落だの在日だのもあったが、もはや何だか目立たない存在になってるし、今更そんなの差別してもウケそうにない(かのように思われた。当時は)。そこで彼が独創的だったのは「高卒ドキュン」という、まったく新たな被差別階級概念を自分で創りだしたことである。
これは確かに独創的だった、しかし限界があった。なるほどかろうじて当時まで、ネットユーザーには、どっちかといえば学歴も収入も高い人間が多くを占めた(従来パソコンって高価だったしスキルが求められ、初期のネットユーザーは理工系の技術者や大学院生が多かったろうから)。だからネット内で差別エリーティズムの標榜が成立しえたんだろうけど、あっという間にネットもパソコンも大衆に普及した、で、そもそも日本人全体じゃ大卒の方が少ないのである、これでは差別の成立しようが無かろう、被差別対象の方が多いんじゃねえ(笑)
しかし、マミー石田の高卒ドキュン差別によって、アングラを気取る人間の間で「差別=過激で、先鋭的、目立つ、斬新」というスタイルの先鞭はつけられたわけである。

すり替わった論点

何度も書いたことだが、わたしは、小林よしのり『ゴー宣 戦争論』の主張は「大東亜戦争を戦った爺さん肯定」の筈なのだが、若い読者の多数は「日本は正しい良い国→自分は正しい良い子」という現状の日本肯定自分肯定と受け止めたんだろうな、と認識している。
その齟齬が表面化せずに済んだ幸福な時期ってのが1999〜2000年頃だったんじゃないかと。
『ゴー宣 戦争論』の戦後民主主義教育批判は、読者の間で「大東亜戦争否定はおかしい」だけでなく、更に敷衍されてドミノ式に、「戦後民主主義教育は水で薄めた共産主義だ」、「弱者は無条件に正義の人権思想はおかしい」、と進み、かくして、無条件に「差別は良くない」という漠然とした観念もなんだか解体され、差別肯定も一部の過激な偽悪アングラ気取りだけのものでなくなる下地ができた。だがまだ「差別はしても良いのだ」とまでは行ってなかったと思う。
「右傾化」「保守化」の中身が変わってきたのは2001〜2002年だろう。911テロ後に刊行された『戦争論2』はアメリカを批判し、現代の反米アラブ勢力を大東亜戦争当時の日本と重ね称揚した。そしたら当然、読者には反発が出まくった。だってそれじゃ現状の日本肯定自分肯定でなくなっちゃうもの。
表面的な左右を別にすれば、反米自立という、突き詰めてゆけば現状自己否定を含む主張するようになって以降の小林よしのりの位置は、かつて1970年代、新左翼の若者反乱が消費ミーイズム肯定にすり替わった中、窮民革命論、アジアにゃ我々よりもっと貧乏な民がいるんだから、むしろ日本人全員貧乏に戻れ、という、突き詰めてゆけば現状自己否定を含む主張を掲げた竹中労などの位置に該当するんじゃないのか?という気がする。
続けて2002年には北朝鮮が日本人拉致を認めたことで「北朝鮮けしからん」が、一部の保守的とされる人々だけでなく、庶民の感情として普遍的に普及した。政治的なややこしいイデオロギー問題とかじゃない、拉致被害者は自分らと変わらぬ普通の庶民だ、それが勝手に異国にさらわれ家族別離の悲劇に遭わされた、という報道には、同情が集まったし、そんな悲劇を作った者への非難が起きるのは当然だろう。
しかしそこから事態はスライドし「北朝鮮けしからん」→「総連は北の協力者である」→「在日も叩いてオッケー」となり、2002年W杯で露呈した韓国観客の熱狂ぶりへの違和感「あの半島の人は南もなんか変」という感情も合わさって、既に「差別はしても良いのだ」となりかけてた事態は差別解禁、と開花した、ということではないか?
アメリカ批判は戦後日本の否定=現状自分の否定につながらざるを得ないが、「チョン」や中共の差別なら現状の自己を一切否定する必要は無い(差別だけでなく、じゃあ具体的に北や中共に備えるなら政策をどうするか、となると、日本の正式な再軍備→自分自身も一兵卒として血も汗も流さないといけないかも知れない→それはキツいからヤダ、考えたくない、となるのかな?)。
朝鮮に中国だけじゃない、あとは総連利権の暴露から同和利権の暴露と進んで部落差別も解禁、人権思想なんてもう信用しなくて良いってわけで、犯罪者となりゃプライバシー暴露してネタにはし放題、市民運動左翼だって反日なんだから差別してオッケー……ということではないか、なるほどこれでは今更マミー石田もかすむわな。

動物化した差別者

『ゴー宣 戦争論』の風下にあるはずの若いネット右翼・保守の小林よしのり離れの背景には、だんだんネットでは、特に2chでは、小林よしのり愛読者というと「コヴァ、コヴァ」と呼ばれバカにされ、恥ずかしい、という図式が定着したのもあろう。というか、2chでは、誰の愛読者と自称しても「××信者」とバカにされる。
とにかく、自分の主体を、自分が何を支持してるかを明らかにすると突っ込まれる、恥ずかしい、何でも相対主義的に距離をおいて見ることができる(バカにすることができる、ツッコミをいれることができる)のがクールで格好よい、という空気が蔓延した結果、何かを積極的に支持するのは一切流行らず、しかし何かを貶すことだけは簡単にできる、結局、だから差別が流行――と、いうことではないのか。
しかしこれはもうすでに知能のある人間の思想営為ではなく、欲望の発露だけしかないのではないか。
かつて岸田秀フロイトを引用して、人間は本能の壊れた動物で、食欲も性欲も本来は生存本能に基づくが、いつの間にやら本来の目的を外れそれ自体の快楽が目的になったと書いてたが、人間には食欲や性欲と同じように差別欲の快楽というのがあり、本来は自分の民族なり国家なりの防衛という生存本能に基づくものの筈だが、いつの間にやら、それがもたらす優越感が自己目的化するようになったのではないか、としか思えないフシがある。
欲望に単直になるのを「動物化」と呼ぶ向きもあるが、動物は生存本能の必要以上に欲望に耽溺はせんものだとと思うのだが。