電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

庶民兵卒代表vs高学歴士官代表

ばくはつ五郎氏と、今、雑誌で戦争特集をやるならどういう角度が必要かという話になる。
古山高麗雄吉田満の対談は、陸軍落ちこぼれ一等兵と海軍エリート青年士官のそれぞれの立場からの相互補完的な照射として意義深い、という話になり、現代、団塊世代の大衆的に影響力のある表現者で、これに匹敵すべき組み合わせをやるとしたら、本宮ひろ志かわぐちかいじの対談じゃないか、と思いつきが出て、膝を打つ。
言うまでなく、同年輩で、かたや『国が燃える』かたや『ジパング』なわけだが、かたや中卒で自衛隊、かたや全共闘シンパとまでは言い切れぬが明治大学漫研出身。
90年代前半なら『スタジオヴォイス』か『03』か『マルコポーロ』あたりでやってそうな企画だな。

不在の中心としての父の背中

小原慎司二十面相の娘』(メディアファクトリー
昨年後半になってやっとこの作品の存在を知り、以前アフタヌーンで連載してた『菫画報』が結構好きだったので(ギリギリおたくになりきっていない、地方の文化部という雰囲気が、なんとも懐かしい感じのする作品だった)いずれ読む気でいたが、多忙のため手付かず、やっと手をつける。
読み始めて「なんだ小原も萌え路線かよ? そーいうガラじゃねえだろ!」と思いかけたが、考えてみると、話の構成は意外に悪くないかも知れない。
遺産を狙う継母に脅かされ、孤独の中で本心を押し殺しながらも家を出たがっていた深窓の令嬢、という実に古典的な主人公の前に現れ、それを外の世界に誘い出してしまう「大人の世界 外の世界」の象徴としての怪人二十面相
これでもし「二十面相のおじさま」がずっと少女の側にいれば、美しい物語と描かれようとも、気持の悪いロリコン親父にしか見えず(『逆襲のシャア』でのシャアと同じだ)興醒めなのだが、しかしその二十面相は生死不明のままあっさり主人公の前から消え、その後の物語は「不在の象徴としての父」の背中を追う展開になってゆく。
これで主人公が男の子なら、典型的な成長物語になる(キャプテンハーロック星野鉄郎のパターンとか、こういうのは結構好きだ)。主人公が女の子なので、古典的な「足長おじさん」系のファザコン・ファンタジーとなるわけだが、その「二十面相のおじさま」は不在なわけで、下手に男の側からの視点が入ってないお陰で、嫌な感じがしない。
悪者によって宝石箱に閉じ込められた宝石は、自由の野原に解放してやりましょう。
でも、それで自分自身が直接少女から現世利益(リターン)をもらえるなんて思ってはいけません。
それがダンディズムというものです。

生き字引「編集家」の証言

竹熊健太郎ゴルゴ13はいつ終わるのか?』(イーストプレス
表題になった、最終回予測で盛り上がれる超長期連載マンガ『ゴルゴ13』『ガラスの仮面』『美味しんぼ』が、初出原稿の書かれた13年前から、いずれもいまだ続いているというのが凄い。
1960年前後生まれのオタク第一世代と呼ばれる人々の中で、ガンダムに乗れたか否かが大きな分かれ目という点(竹熊氏は、ガンダムにははまらなかったクチ。でもエヴァンゲリオンは評価しているというのが複雑な立ち位置)、70年代ミニコミ・ブームの背景にあった「簡易オフセット」の普及という印刷技術の側面などは、きわめて重要な時代証言だろう。
竹熊氏、東浩紀とも親しいようだが、どうもエロゲーには興味ないのだろうか。
竹熊氏も関わっていた70年代末〜80年代初頭の自販機エロ本は「名目上エロさえ入ってりゃあとは何やってもOK」という雰囲気で、最初期の新人類・オタク世代のマイナーな表現者の実験場となっていたというが、90年代末〜20世紀初頭、エロゲーというジャンルがそれに近い面を持ったことを、当時との対比、系譜的な視点も踏まえて語ってくれる人は出てこないのか。
(まあ、ある程度は東がやってるんだろうけど)
ほか、いずれも竹熊氏の文章としては一度読んだことのあるものが多いが、私的個人的にちょっとニヤリとしたのが、手塚治虫ドストエフスキーの話。この原稿、初出が2001年の8月だそうで、わたしはそれ以前、畏友ばくはつ五郎氏とともに竹熊氏宅にお邪魔させていただいたことがあるが、そういえばその時、手塚版『罪と罰』と原作のラストシーンの違いの話をした記憶があった。
(まあ、竹熊氏の方は覚えてないかも知れないけれど……)