電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

坊主頭の奴がほとんどいない旧日本軍潜水艦

と、いうわけで、延長上映も終了間際になってやっと、映画『ローレライ』を観てきた。
公開が始まってから相当経つのに、今更この作品に深い興味を覚えたのは、畏友中川大地が教えてくれたGAINAX関係者インタビューが凄く面白かったのだが、その樋口真嗣の回によると、どうも同氏としてはかなりの勝負作らしいからだった。
http://moura.jp/frames/gainax/
で、特撮・アニメ業界デビューが1984年のリメイク版『ゴジラ』の撮影所手伝いで、庵野秀明の『ふしぎの海のナディア』にも深く関わった樋口のことだから、岡本喜八の『沖縄決戦』や『日本の一番長い日』みたいな「東宝の戦争映画」を大いに期待してたのだが、この点は、う〜ん……
俺も古いものの良さにこだわって前を見ない奴ってことなのかなあ……
ただやはり、冒頭いきなりテロップが「1945年」ってのはいただけない。縦書きの漢字で「昭和二十年」として欲しかった。
この作品へのツッコミどころとしては、まあ『映画秘宝』のウェイン町山ガース柳下対談のご意見は妥当と思える。まず見せ方とかがアニメ的な作りとしか言いようなく、(1)「登場人物のメンタリティが戦後民主主義世代のもので、ぜんぜん戦中の人間に見えない」、(2)「潜水艦の映画に少女を出す必然が無い」といった点とか。
確かに、主要登場人物の一人称が「私は――」となってるのは違和感あったな、当時の日本軍人なら「自分は――」だろう(←こういうことばかり言ってると、だだのミリタリオタみたいだが)
ただし一点、余談ながら、重箱の隅を突っつくような角度から、ウェイン&ガースの指摘に留保を唱えさせてもらうと、劇中、日本軍の兵士が、広島に投下されたばかりのブツを指して「原子爆弾」という言葉を使っていて、この時点では日本側は「新型爆弾」と読んでなければおかしい、というのは、決してそうとも言えないとも感じる。
山田風太郎『戦中派不戦日記』では、昭和20年8月11日の時点で、医学生の山田誠也青年は、教授から「新型爆弾は原子爆弾らしい、ウラニュームを応用せるものか」と聞いている。当時、日本国内でも、理系である程度の学識ある人物なら(物理学徒でなく、医学徒でも)「原子爆弾」の概念、存在は知っていたのだ(実際、日本にも、原爆製造計画はあった)。
しかも『ローレライ』中、伊507潜水艦を発進させた浅倉大佐は、じつは密かに米軍とつながっている。だから同作品中、浅倉と、浅倉と直接会話した人間が「原子爆弾」という言葉を使ってるのは、まあおかしくあるまい。
――と、脇道にそれたが、まあ、上記(1)の点は確かに、否定できん気はする。
後述するが、これは福井晴敏の小説版も、後半になるにつれてどうしてもその感が拭えない。
だが、現代のエンターテインメント映画で正面から特攻を全面的に賛美するわけにも行かず、さりとて全員生き残るのはいくらなんでも嘘臭いという、作劇上のせめぎ合いの中、潜水艦伊507のメイン乗組員は、恐らくは生きては帰らなかったろう、と、生死不明→伝説化の演出で落としたのには、苦労の跡を認める。
樋口も、やはり自分が戦中世代の心情を完全に理解し描ききることなど無理と諦め、描ききれない部分は暗示に留めてはしょった――というのは好意的解釈に過ぎるか……。

どうせなら『大海獣パウラ』となる映画をやって欲しかった

で、(2)の点について言うと、なるほど、樋口の出世作である平成『ガメラ』シリーズ、特にパート3の『イリス覚醒』も、一部では評価が高いが、下手に少女の話なんぞにしたせいで、いまいち話が中途半端な感は拭えない。
しかしだ、改めてふと思った。樋口は『ローレライ』の企画に関して、原作担当の福井に、商業的な理由から「第二次世界大戦の話で、潜水艦で、あと少女を出すこと」と条件をつけたというが、樋口真嗣という人自体は、実はあんまり少女自体には興味がないんじゃないのか? と。
要するに、商売のため添え物的に「萌え要素」も入れた、という以上に、少女が出てくる必然が感じられないのだ。だったら男の話で良いじゃん、と。
逆にいえば、少女を出すなら、添え物じゃなく、それが目を逸らしようない話のメインになってなきゃ生きないというものだろう。
以前、畏友の一人は、『ガメラ3 イリス覚醒』に対し「目の前でガメラに家族を殺されてPTSDになった、なんて設定の女の子(前田愛演じる比良坂)が、クライマックスであんなにあっさり立ち直るか」と言っていた。そう、同作品もいっそ、ガメラへの復讐心からイリスを育てていた比良坂がブチ切れ大暴れの末に破滅、最後は、そんで死なないまでも頭真っ白になっちゃっうとか、そんな話に徹してくれた方が、いっそカタルシスがあるのになあ、と思うことしきり。
(そんな企画通らないだって? 富野由悠季ならやるぞ! まあ、そればっかやられても困るが)
樋口真嗣、潜水艦、少女、ときて連想するのは(昨年再放送してた)『ふしぎの海のナディア』だ。
もっとも、ナディアのキャラクターは庵野秀明の産物だが、これは「しょせん男が作ったキャラ」と言われつつ、その人格破綻の徹底ぶりにおいて、良くも悪くも強烈なインパクトを残している。
リタルタイム放送当時、毎回、生き物を殺す奴は一切許さんだの、大人には一切心を開かないだの、そのくせ一人で生きてゆける力もないという、とんでもないバカ娘のナディアが、すったもんだの末、少しは他者を受け入れるようになったかに見えながら、次の回では前の話が何も生きてないかのごとく周囲を拒絶して振り回すことの繰り返しに閉口したが(特に、樋口真嗣が演出を担当した中盤の「南の島編」)、考えてみると「人間そうは簡単に良く変わらない」→「しかし、変わらんなりに一度できた周囲との関係性は持続してゆく」という辺り、意外にリアルに感じなくもない。
で、そのような徹底した、他者を受け入れられない人格破綻者として描かれたナディアが、クライマックス土壇場の展開で、自分を生かしてくれる周囲の人間の存在の意味に気づき、躊躇なく他者を切り捨てる敵首領ガーゴイルとの対峙に至るからこそ、カタルシスが生まれるわけである。
あと、庵野秀明作品(『ふしぎの海のナディア』『エヴァンゲリオン』)に限らずGAINAX作品(山賀博之の『王立宇宙軍』、鶴巻の『フリクリ』ほか)では、大抵、少女キャラって、しょうもない日常を生きてる男の子にとっての、外部世界、他者の象徴だったりするわけだが、樋口作品ではそういう要素はいまいち乏しい。
まあでも、考えてみたら『ローレライ』は樋口にとって、特技監督ではなく、本編監督第一作だし、今後の展開に期待、ということか。
あと『ローレライ』見せ方、演出とかで、感心した場面は少なくない。
冒頭、浅倉と絹見艦長がドック内の潜水艦伊507を見る場面はCG合成ながら実物大セットかと思ったぐらいだし、中盤、浅倉が海軍の中枢幹部達に自決を迫る場面「最後の晩餐だ」と言って、空の皿の上に切腹用の小刀が配られる演出とかは、絵ヅラ的にはあざとくも上手いと思った。浅倉の同志土谷の設定を完全に変え、若い少尉としたのは、三島由紀夫と森田必勝を感じさせなくもない。
せっかく興業的には成功らしいんだから、あとは徐々に深みをつけて欲しいところ。

神なき世代の神殺し文学

で、先月後半仕事の合間をかけてやっと読破した、小説版『終戦のローレレイ』について。
すでに同じ事を言ってる人もいるようだが、この書の、最大のポイントは、実はひょっとしたら「『日本民族』への愛国心のため天皇を殺すことを考えた男」を描いたことではないだろうか。
この物語の黒幕、海軍の浅倉大佐の本心の試みは、日本が真に強く生まれ変わるため、敢えて「東京に原爆を落とす」ことで、主人公たちは、無辜の都民を何万人も殺すのは良くない、といってそれに反しようとするわけだが、ここで重要なのは、浅倉が(少なくとも昭和20年時点の)日本人を根底から叩き直すには天皇を殺すしかない、という考えを明確に持っている、と描かれていることである。
当時の日本人のほとんどは「ここで戦争を止めたら、陛下に申し訳ない」という心理で戦争を続けていた。だがその「陛下に申し訳ない」は、じつは「皆に申し訳ない」と同義だった。なぜなら、日本人は、特定の指導者に従うのではなく「場」の「世間」の「空気」に従う民族だからで、当時、その「場」の「世間」の「空気」を一方向にまとめるのに利用されてきたのが天皇制だった。
だからここでの「陛下」とは、もはや生身の人間、裕仁個人ではなく、天皇を頂点にした、責任回避のシステムでしかない。戦争を進めたい側も「俺が戦争を進めたい」とは言わず「陛下の御意志」と言うのが決まりだった(人に責任押し付けやがって、この野郎!)
浅倉はそのような日本人気質の愚かさを熟知し、日本人が、アメリカにもソ連にも屈せず、国家を失ってなお民族のアイデンティティを強く持って生き延びるには、皇居ごと帝都を吹っ飛ばすしかない、と考えた、というわけである。
(考えてみたらこれ「全人類をニュータイプに覚醒させるため、地球を人の住めない星にする」というシャアと同じだね。さすが福井もガンダム世代……)
浅倉の同志の一人は「日本民族万歳」と叫んで自決する。「天皇陛下万歳」ではなく「大日本帝国万歳」でもなく、かといって「お母ちゃーん」でもなく「日本民族万歳」と叫んで自決する日本軍人……超高性能の人力水中探索装置より、こっちの方が、よっぽどSFだ。
過去、ほかにも、戦争を媒介にした日本人論、戦前戦中の硬直した近視眼的な軍国主義の日本、戦後のアメリカ的な「豊かさ」によって腑抜けた日本をともに否定し、また、さらには、そのどちらでもない、第三の途としての、まっとうなナショナリズムを備えた日本、またそれを創りだそうとする人物、を描こうとした作品は存在する。
(現在進行中の作品で言えば、かわぐちかいじジパング』もだろう)
だが、単にわたしが不勉強で無知なせいもあるが、そこでは常に天皇の問題は曖昧にされてきたのではないか?
「戦前戦中の硬直した近視眼的な軍国主義の日本とも違う、まっとうなナショナリスムを備えた日本」を描こうとするなら、ほぼ必然的に「天皇抜きのナショナリズム」を考えなければならない。
例えば村上龍の『五分後の世界』での、対米抵抗運動を続ける「アンダーグラウンド」の日本兵たちは、日本の武士らしい質実剛健さと、責任の主体を曖昧にしない近代西欧的な自立性を持った、理想的な日本軍人と描かれるが、この作品では、天皇は敗戦時にスイスに亡命したことになっている。
また、矢作俊彦『あ・じゃ・ぱん』では、敗戦時に東西に分割され、天皇を失った東日本で育った平岡公威なる男が、父権を失った戦後日本を不甲斐なく思い、富士山を爆発させて日本を道連れに自殺を図る。
いずれも、天皇の不在を前提として、はじめて戦前戦中の軍国主義とも、戦後のアメリカニズムに毒された日本とも違う「第三の日本」を描き得たといえる。だが、作中でハッキリ昭和天皇を「殺す」ことに触れることはできなかった。ここが限界だったといえるだろう。
この「天皇抜きのナショナリズムの可能性」を、億面なくサラリと描いてしまったというのが、1968年生まれの福井が、冷戦体制崩壊昭和天皇死去(1989年)以降の世代であるゆえんではないか。

ものわかりが良すぎる日本軍人たち

映画の『ローレライ』にしても、小説の『終戦のローレライ』にしても、自分と世代の近いクリエイターの作品としては好意的に評価したくあり、これが力作なのは認めるが、どうしても、突っ込みたくなる箇所は少なくない。
ただしそれは、自分が同じような話を作ろうとしても、同じようなことになってしまいそうな気が凄くする、という自戒込みの上でだ。
全体的に、登場人物が物分り良すぎるのである。
まずヒロインのパウラが、登場後からしばらくは頑なな怖さを漂わせているが、主人公格の潜水艇乗りの折笠と、ある程度打ち解けて以降、感情を露わにするのが早すぎ、また落差が大きすぎる。
上記の『ガメラ3 イリス覚醒』の話と同じだが、ずっと潜水艇の中しか知らなかった娘が、知り合って間もない人間相手に、数日でそうそう簡単に人間性を回復できるもんじゃないだろう。
また、鬼軍曹役の田口がいい奴になるのが早すぎ。ドイツからローレライ・システムを持ち込んだSS士官フリッツを嫌っていた田口が、ローレライ・システム回収のため独断専行を犯したフリッツの拘束係を命じられつつ、しかし、ローレライ・システムの中核とはすなわち生きた人間の少女で、そのパウラはフリッツの妹だと知ると、黙って妹には会わせてやる場面は良かった。
だが、その後も田口のフリッツへの嫌悪自体は持続、で良かったのではないか? フリッツ個人とうちとける気は毛頭ないが「数日間に渡りローレライの中に取り残されてたのは実の妹、という事実をずっと隠してた兄」の心情は汲んでやったというような描き方で。
また、そのフリッツが途中から良い奴になり過ぎ(こればっか)。前半、フリッツが徹底して伊507乗組員と打ち解けようとせず、いざとなったら妹と一緒に逃げることしか考えてないのは良かったが、それが生き延びるために「一蓮托生」を受け入れた中盤以降も、妹パウラを挟んで、折笠に恋敵のような感情を抱くぐらいの描写があるべきだったのではないか。
そりゃベタな展開過ぎると言われそうだが「人の心、裏の裏は、ただの表」とも言う。感情を押し殺した冷徹な人間ほど、無自覚にたちの悪い嫉妬とかをするものでもある(富野だったら絶対そう描くね。しかし、だからってフリッツが全面的に嫌な奴とも描かずにだ)。
クライマックスで絹見艦長が、帝国海軍の正式な命令と関係なく、とにかく「第三の原爆」を阻止すべく勝ち目のない最終決戦に出るに当たり、悪意はないが、帝国海軍の正式な命令にしか従えないという四角四面さで「空回りの風紀委員」みたいな存在だった甲板士官の小松少尉らが、命が惜しいわけではないが、どうしても納得できずに艦を降りてしまう、というのは、確かに、ここでこの小松まで心変わりして一致団結で一緒に戦ったら、まったくの嘘、キレイゴト過ぎ、という意味では正しい描写と思えた。
しかし、更にあえて言うと「場からの脱落」を最大に怖れる当時の日本人の心性を考えれば、小松のような男は「もはや自分は正規の帝国海軍軍人ではなく、さりとて、自立した一個人として決断し、行動することもできない」という葛藤に立たされれば、もっとヤケクソ的な極端な行動(アメリカ、あるいは浅倉に寝返り)に出るものではないか、とも思える。
――以上こうした点を鑑みるに、端的に言って、頭で作ったシリアスドラマを目指しすぎた結果「極限状態に置かれた時の、特に日本人の、みっともなさ」がリアルに描ききれてないように感じられた。
例えば、極端な例を言えば、伊507に「パウラを強姦しようとするバカ」が一人くらいは居てもよかったのではないか。
オイそんなもんとても商業的に描けねえよ! と言われそうだが、真面目に考えてみてくれ、伊507の乗組員はとても紳士的なエリートなんかじゃないという設定で、急場しのぎ的にかき集められ、国から死を命じられた連中だ、そして祖国を離れ何百海里、地上のルールはもう通用しない、そこで、本来、男ばっかりの潜水艦に、女がいたと知れる、しかも言葉も通じない異人らしい……となりゃ旅の恥はかき捨て、そんぐらいやろうと考えるバカは出てきておかしくあるまい。
(食糧事情も悪く、戦闘の合間で、体力的に疲弊して強姦などできない、という見方もできる。が、せっぱ詰まっているからこそ、そういう蛮行に及ぶ心理というのは大いにある)
これは別に左翼的視点から日本軍人の野蛮さを描けというのではない。どこにでも有りえる心理だ。
宇宙戦艦ヤマト』のTV版では、アニメにも関わらず、これに近い話があったはずだ(ヤマトも決して、美しい一致団結だけでなく、イスカンダルに着いた後、森雪を襲うバカが出てくる)
――だが、こう書くとおこがましいが、以上、そういうミもフタもない「みっともなさ」が描ききれない、物分りの良すぎる人物描写になってしまう気持ちも、なんだかわかる気がするのだ。
要するに、筆者福井自身、自分で書いてる登場人物に思い入れて、悪い人間として描きたくない、ということなのだろう。それが悪いとは言わない。
しかし、決して悪意を込めて描くわけでなく「人間、本質から悪い人じゃないけど、そういうことってあるよね」と描けてこそ、リアルな戦争文学だろう。

戦争はたた悲劇的なだけでも英雄的なだけでもない

どうも、戦後育ちでメディア経由でしか戦争を知らない我々が頭で戦争を考えようとすると、極端に、悲劇的だったり、英雄的だったり一辺倒というイメージになってしまうような気がする。
現実には、戦争つったって、24時間365日敵と撃ち合ってるわけではない。その合間には本当にただの、散文的な日常があり、真剣な兵士でも、その時は英雄でもなければ軍国主義の走狗でさえない、間抜けな「ただの人」になっている。
いやいっそ、敵と打ち合ってる最中こそ、「撃たれりゃ死ぬだけだ」と気が楽なのに、そうは楽に死ねない中途半端な居心地の悪さが漂うものなのかも知れない。
例えば、現実の従軍体験者である古山高麗雄の戦争小説では、えんえん繰り返し繰り返し、食い物の話ばかり書いている「食事は一日二食、おかずはにんにくが一粒、あるいは紙のような味がする乾燥野菜、あるいは『ジャングル野菜』と呼ばれた喰える雑草」この言葉が、もう何度も何度も出てくる。
これは別に、彼が食い意地張った意地汚い男だったというわけではないだろう。敵と戦うだの、大東亜戦争の意義だの以前に、とにかく喰って生き延びることが手一杯で、そのことに対し、自分がいかに無力だったか、そのことの体感が大きかったことを示しているんだろうと思える。
また、例えば岡本喜八の戦争映画、『肉弾』では両腕を失った男が小便しようとしてハタと困る場面があるが、これとかは「名誉の負傷」とか、悲惨というより、ただ即物的に、もう苦笑するしかないというような間抜け感として描かれている。
結局、映画の『ローレライ』も小説版も、足りない部分ってのは、そういう部分じゃないのか、と感じた。また、それは、現実の戦争を知らずとも、また律儀に資料から現実の戦争をお勉強しなくとも、自分自身の日常の姿から描き出せるのではないか、とも思える。
もうちょっと、戦争と平時は、我々が思っているほどに極端に違うものではなく、戦争という特殊な状況が、人が普段から内在的に持ってる要素を端的にあぶり出す、というあたりに踏み込んだ表現が現れて欲しい。
というか、これは我々世代以降の表現者の課題だな。