電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

不在の中心としての父の背中

小原慎司二十面相の娘』(メディアファクトリー
昨年後半になってやっとこの作品の存在を知り、以前アフタヌーンで連載してた『菫画報』が結構好きだったので(ギリギリおたくになりきっていない、地方の文化部という雰囲気が、なんとも懐かしい感じのする作品だった)いずれ読む気でいたが、多忙のため手付かず、やっと手をつける。
読み始めて「なんだ小原も萌え路線かよ? そーいうガラじゃねえだろ!」と思いかけたが、考えてみると、話の構成は意外に悪くないかも知れない。
遺産を狙う継母に脅かされ、孤独の中で本心を押し殺しながらも家を出たがっていた深窓の令嬢、という実に古典的な主人公の前に現れ、それを外の世界に誘い出してしまう「大人の世界 外の世界」の象徴としての怪人二十面相
これでもし「二十面相のおじさま」がずっと少女の側にいれば、美しい物語と描かれようとも、気持の悪いロリコン親父にしか見えず(『逆襲のシャア』でのシャアと同じだ)興醒めなのだが、しかしその二十面相は生死不明のままあっさり主人公の前から消え、その後の物語は「不在の象徴としての父」の背中を追う展開になってゆく。
これで主人公が男の子なら、典型的な成長物語になる(キャプテンハーロック星野鉄郎のパターンとか、こういうのは結構好きだ)。主人公が女の子なので、古典的な「足長おじさん」系のファザコン・ファンタジーとなるわけだが、その「二十面相のおじさま」は不在なわけで、下手に男の側からの視点が入ってないお陰で、嫌な感じがしない。
悪者によって宝石箱に閉じ込められた宝石は、自由の野原に解放してやりましょう。
でも、それで自分自身が直接少女から現世利益(リターン)をもらえるなんて思ってはいけません。
それがダンディズムというものです。