電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

議院内閣制って非効率?

先日、なんとなく後藤田正晴回顧録『情と理』ってのを読んだ。
以前、丸二年近く前に書いた、中曽根と後藤田の違いがわかった気がする。
後藤田は戦前の内務省官僚あがりで元警察長官だけあって、ガチガチに管理側の人間のはずで、実際、60年安保の時だって警察力が大きければデモ隊は暴走せず、樺美智子は死なずに済んだ、とか、自信を持って語る。しかし、そんな後藤田、東京帝大卒のエリートなのに戦時中は陸軍に徴用され、職業軍人にコキ使われ辟易したらしい。とにかく、職業軍人は視野が狭いと語る。
一方、中曽根のいた海軍はインテリ士官が多かったというが、海軍士官は陸地から切り離されてるし、インテリ士官だけで固まって(何しろ海軍は士官と兵卒で食事から違うのだ。陸軍の方が良くも悪くも「同じ釜の飯」意識が徹底していたらしい)ある意味では観念的だったらしい。
後藤田も究極的には改憲論者だが、改憲は自分らの世代が死に絶えてからであるべき、と譲らず、この点で自分の目の黒い内に改憲を、という中曽根と対照を為す。
後藤田といえば法務大臣時代に死刑執行をやったが、当時、親しい知人などからも死刑反対の陳情をよく聞き、その上で、しかし今の法制度は死刑制度を認めてるんだから、というわけで、執行したらしい。この人は、もし日本が合法的に社会主義政権になれば、今度は迷わず社会主義の法理を忠実に執行する、というタイプかも知れない。
この人は官僚としては職務に忠実、有能だったようだが、さて退官して議員に立候補したら、金の管理を肇とする選挙のやり方をサッパリわかっておらず、事務所を他人任せにして大量の違反者を出し、この件だけは自ら大いに恥じている(当然だ)。
後藤田ぐらい官僚として実績があれば、議員でなくても官僚からの格上げで大臣にしてやって全然おかしくないのではないか、とも思うのだが、それでは世間体が悪いらしい。
しかし実際、田中真紀子などを見ればよくわかることだが、外務大臣には外交経験豊富な人がなり……といった「モチはモチ屋」で大臣が決まってるかといえば、ちっともそんなことはなく、当選回数や知名度で大臣の首が決まり、しかもすぐ変わる。
選挙で選ばれた議員で内閣を作るというのは「民意の反映」なのだろうが、結果、陳情や圧力ですぐ政策を決められては、むしろ衆愚政治ではないか?

読者を一切傷つけず「正義の被害者」気分にさせてくれる漫画

発売直後からベストセラーと言われつつどこの書店にもなかった『マンガ嫌韓流』が、新宿紀伊国屋書店とかにも入るようになったので、ようやく一応読んでみる。
刊行前、この本の噂を耳にしてから危惧していたのは、「ひょっとして雁屋哲原作の『蝙蝠を撃て!』の保守版みたいなもんじゃねえのか?」という思いだった。
雁屋原作の同作品(作画は、本作品で石ノ森プロの信頼を下げたシュガー佐藤)は『週刊金曜日』に連載され、小林よしのりの『新ゴーマニズム宣言』への対抗が感じられなくもない作品だった。
『ゴー宣』が基本的に筆者小林個人の「ごーまん」で展開するのに対し、『蝙蝠を撃て!』は民主的合議制のつもりなのか、作中の主人公が数人いて多様な角度から保守文化人批判の傍証を語るのだが、これが却って白々しくて仕方なかったのだ。要するに、どうせあらかじめある結論に向かって同じ意見の登場人物同士でうなづき合ってるだけ。まるで北朝鮮みたいだ。
で、『マンガ嫌韓流』、その点はまあ想像通り。主人公と友人と女友達が三人で同意見をうなずき合ってるだけ。書かれてる内容は一面まったく正しい、だが、見事にただの絵解きマンガ。共産党のマンガであってもおかしくない。だが、それでもウケてるらしい。
少なくとも『ゴー宣』はこの点が白々しくキモくはなかった。作者自ら自分個人の主観と独断だと居直り、それを語る自分自身をまで「ただの説明役」ではなく「ギャグマンガキャラクター」として戯画化してるからだ(だが、最近の『新ゴー宣』では、同意見のアシスタントや秘書とうなづき合ってる描写も結構あり、そこは好きになれない)。
マンガ嫌韓流』で唯一グッと来たのが、死にかけの爺さんが、自分らは朝鮮統治時代、朝鮮を良くしようと努力したのに云々と無念を語る場面。爺さん達にはそう言う資格がある、現実、爺さん達は本気で血も汗も流した(一部ひどい事やった人もいたろうが)。
が、現在の我々世代は何もやってないまま被害者面で権利主張したいだけ違うんか?
『新ゴー宣戦争論』から『マンガ嫌韓流』は見事な後退だ。何しろ「昔の日本人はこんなに偉大だった」から、「今の日本人は黙って立ってるだけで被害者、だから正義」である。
だが、そういう「俺の方こそ被害者、だから正義」という怠惰な自己正当化が蔓延した背景には、「何かやる奴=(結果に功罪の両側面があっても)悪」「被害者=(何も生み出してなくても)正義」という思考を蔓延させた戦後民主主義人権左翼の罪も重いのだ。

【覚え書き】仕事のためもあり、最近観た戦争映画とか

  • 『英霊たちの応援歌 最後の早慶戦』(1979年/東宝/監督:岡本喜八
    • 「大学生」自体がエリートだった時代の話なんで、軍隊嫌いの大学生たちは、なんか偉そう
    • 兵学校での訓練シゴキの描写は喜八だからマンガ的だが、その裏にマンガ的にでもしなきゃ描けない悲惨さが漂う(『ハワイ・マレー沖海戦』兵学校の描写と表裏一体)
    • でもみんな最期は勇壮。家族を失って「『そいつのために死ねる』と言える相手としての女」を捜すのに「『祖国』を探しに」と言うのが絶妙(同じ喜八の『肉弾』と同じだ)
    • しかし『歴史群像 連合艦隊の最期』で、日本の学徒兵は連度が低く戦果が上がらず、仕方なく特攻作戦になった、なんて書かれてるの読むと複雑な気分になる。
    • ちなみに、アメリカ側はエリート学生の志願兵が実に多く、しかも有能だったとかで、元大統領のケネディニクソン、ジョンソン、レーガン、父ブッシュ、皆従軍経験者だという。
    • その背景には欧米には高貴なる者は身を張って義務を果たすべしというノーブレスオブリジェの考え方があるという。これは今の日本に一番欠けてるものだな。そういや昔から日本じゃ華族の子弟にも徴兵逃れが多かったとか……
  • 『海ゆかば 日本海大海戦』(1983年/東映/脚本:笠原和夫
    • 末端水兵の艦内生活描写が実に細かくナイス、白襟の将校との対比が効いてる
    • ガッツ石松の機関士とか『零戦燃ゆ』の整備士同様、「様々な人間によって兵器は動いている」という感じが良く出ている。
    • 家族と再会したばっかりに戦いに行く意気地が挫けた水兵ってのがまたリアル
    • 記念艦三笠を見てから観ると実感倍増!!
  • 『日本海大海戦』(1969年/東宝/主演:三船敏郎
  • 『戦艦大和』(1953年/新東宝/原作:吉田満
    • もっとも戦後間もない時期の作品で、一番淡々としている。
    • 甲板から艦橋を望む画面がマット画合成というのが低予算っぽいなあ。
    • 出演者に東宝戦争・怪獣映画お決まりの藤田進のほか中山昭二(キリヤマ隊長)までいた。
    • 期待してた甘い物が食えず、でも弟も海軍に入って欲しいばかりに「汁粉を食った」と書き送る少年兵が泣かせる。
    • 『沖縄決戦』にも引用された有名な白淵大尉の話の引き方は少し中途半端。
    • 船が傾き、浸水しまくる描写の悲惨さはさすがに実感がこもっていた。
    • ラストシーンはやはり、海上死屍累々に『海ゆかば』、これ定番だな。
  • 『君を忘れない(1995年/日本ヘラルト/主演:木村拓也
  • 『亡国のイージス』(2005年/松竹/原作:福井晴敏
    • 主人公が下士官なのは良いが、先任伍長少々スーパーマン過ぎ
    • 先任伍長が部下を思う態度はよくできてるが、クーデタ派の上官にデテールがない
    • 現代のイージス艦の中、とその鉄壁ぶり、弱点(水中の腹部)はよくわかった
    • 「亡国」を主張されてもその具体が感じられないのが仕方ない
    • 唯一、主人公が生き延びその後もしぶとく軍艦に乗ってる映画だ
    • 中井貫一の「亡国工作員」は無表情を貫いてて存在感があった
    • しかし、これは仕方のないことだろうが「平和ボケに戦争のリアリズムを突きつける」って言う方が観念的に見えちまうんだよなあ……

――海軍モノの作品ばっか見てると陸軍モノも見たくなるね。でも疲れる。そういや8月頭にやってた中村獅堂主演の小野田少尉のドラマは結構良かった。もとは「天皇は神ではない、人間だ」と理解もしていた合理主義者が、戦闘で戦友を無残に失う内に、その無念を無駄にしたくない思いで引き下がりようなく戦い続ける心情はリアルだった。
そういや『海底軍艦』もそんな感じだった。敗戦後も南島に残った轟天建武隊のメンバーは「靖国神社の予約番号」を腕に彫り込んで、捕まっても黙して何も語らず。神宮寺大佐は上原謙の元上官が説得に来ても応じず、戦後育ちの娘と最後までまったく和解しない。
狂信的だって? 「隣の人もそれをやってるから」という理由で資本主義正義真理教にハマれる現代人もいっさい変わらんよ。