電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

早すぎた表現

『Z GUNDAM HISTORICA』10号「ゼダンの門」(講談社)発売(isbn:4063671925)。
わたしはいつものエピソードガイドの図とキーワードコラムのほか、コラム現実認知RealizingZで、「現実世界を蝕む「強化人間」チャイルド・ソルジャーの悲劇」を、キャラクターガイド星々の群像で、コラム「レツ&キッカ」などを担当。
「星々の群像」は、サラ&カツ――『Zガンダムヒストリカ』編集部では、当初、この二人をセットで扱う予定はなかった。
典型的文系軽薄才子シロッコに乗せられその歓心を買おうと踊るサラ、そんなサラに惹かれる青臭いバカ気の至り暴走厨房カツ……ハッキリ言って、この二人は『Zガンダム』の一番イタい部分である。リアルタイム放送当時、同世代の観客がもっとも気まずい思いをしながら見ていた部分であろう。
が、それゆえにこそ、20年を経て見返す時、こーいう部分の生臭さを正面から描いてくれたからこそ『Zガンダム』とは、見ていて決して気持ちよくはなくても、心に残る作品となり得たのではないだろうか? と、再確認される。
どうも来春公開の劇場版『Zガンダム』完結編じゃサラが大化けの予感、みたいだし。
それから、わたしは北爪宏幸氏インタビューも担当(前回の永野護氏に続き、現在は漫画家である)。字数の関係でオミットしたが、北爪氏が自分がスタッフとして関わった当時は気に入らなかった『逆襲のシャア』を再評価するようになったのは、93年に庵野秀明山賀博之両人が中心となって作った同人誌『逆襲のシャア 友の会』がきっかけだったという。
今日でこそ、皆『逆襲のシャア』までを含め「シャアってのはひでぇ奴だ」と言いつつ、そんなシャアをツッコミつつ愛している、というスタンスが普遍的ではないかと思えるが、その先鞭をつけたのはまさにこの同人誌だったのではないか、と思われる。

一週間遅れの後出しツッコミ

先日、畏友河田(ばくはつ五郎)と、先週末にTV朝日でやってた、山田太一ドラマの『終わりに見た街』の話になる。
わたしは23年前の旧作版をなんとなくラストシーンだけ知ってたのでナメて斜め見にしていたのだが、戦時下にタイムスリップした現代家族のうち、戦後平和主義の下で育った大人が厭戦気分なのと裏腹に、若者の方が当時の軍国主義に染まってくという筋書きは悪くはないのだが、その若者の心情をただ台詞による説明で済ませ、工場勤労動員なり、隣組の集団訓練なり、防空壕での生死をともにする一蓮托生の同胞意識なり、体を動かしての「行動への参加」がもたらしてゆく心境の変化のプロセスを丹念に描いてくれればよかったのに、それを怠ってるのは遺憾イカン、と言ったら、河田も同感との言。
2、3ヶ月ばかり前、筑紫哲也ニュース23の「日本人の愛国心」とかなんとかいう特集で、インターネットで右傾的発言をする若者を取り上げた回(工場労働者の愛国ラッパーと、就職活動中の高偏差値大学生という組み合わせだった)もそうだったが、今のぷちウヨ若者を無理やり自分でも理解できる文脈にはめ込んでみたよーな白々しさ感は拭えない。
それより『終わりに見た街』では、いっそ戦時中にタイムスリップした現代の引きこもり青年が「戦争非協力の非国民や朝鮮人は幾らでもバカにしてオッケー」という空気に直面し、最初は戸惑いつつも、自分が指弾される側に回る事の怖さから指弾する側に回り、やがてその陶酔にハマってゆく、なんて描写でもやってくれれば良かったのだ。
確か、かつて1990年頃、西尾幹二先生は、当時話題となっていた外国人労働者問題について、「外国人が増えれば、日本人は『外国人差別』の味を思い出して良くないから外国人流入を制限すべき」という、注目すべき論陣を張っていた。
でもその西尾先生も、最近なんだか単なる差別好きの今様の若者に迎合してるだけのようにも見えなくないと感じてしまうのは皮肉な限り。

中身スカスカのプロパガンダ 切れば血の出るプロパガンダ

『映像の20世紀』と同時に友人にもらった昔のNHK特番の『ヒトラーと6人の側近たち』を観る。ゲッベルスの講演でのプロパガンダの手法が詳しく解説されていた。
広大な密室空間の公会堂に集められた何千人もの聴衆、はじめは戦死した女子供とかの感傷的な話で自分の人間性をアピール、観客が同情から共感してきたところで、だから諸君、国家総動員体制に協力してくれ! きみたちこそ選ばれしエリートなのだ! とかナントカ煽る、密室の会場内は割れんばかりの拍手、躊躇してる奴がいると「何だお前は賛同しないのか?」とばかりに、逆らえない同調圧力と来る――ふと気が付けば、皆、総動員体制の中で馬車馬となって働いてましたとさ……という次第。
なんじゃこれは? 俺がつい数年前に、日本で体験した、ネットワークビジネス(マルチレベルマーケティング)商法の集会とまったく同じではないか!
現代のファシストは「お国のため」「党組織のため」などとヤボなことは言わない。表面上、「貴方の資産を増やすため」「貴方の社会的成功のため」とホザき、密室空間に集めたカモたちを、きみたちこそ選ばれしエリートなのだ! と煽って乗せるが、結局は、そうやって自社の集金活動の奴隷にしたいだけである(その程度の昂揚だから、簡単に乗せられた奴らは、うまく行かなければすぐに「騙された」と言って逃げ出す)。
しかし、同じ実録映像でも『ハワイ・マレー沖海戦』で何万人もの少年航空兵が訓練のため一斉に体操してる場面とかにはまったく嫌悪感なく、むしろうっかり本気で感動を覚えるのに、なぜ、ゲッベルスの講演、いや、現代のネットワークビジネスの集会はムカつくのだろうか?
それは要するに『ハワイ・マレー沖海戦』では、その少年航空兵たちの一人一人が、貧しい田舎の農村出身の若者である事がきちんと描写され、彼らは皆、厳しい上官によって課されるキツい訓練に自ら身を投じている矜持が感じられるからであろう。これに対し、ゲッベルスの、いや、現代のネットワークビジネスの経営者の講演は、ただ座ってるだけの聴衆に馴れ馴れしく擦り寄り、きみらは何の努力もなくても、この場にいるだけで、成功を約束された者なのだ、とかナントカ言って乗せる……この態度が欺瞞的なのだ、多分。
終わりに見た街』も、戦時下の本物の一蓮托生気分は、良くも悪くも、そんな言葉ヅラだけのプロパガンダとは大違いだという辺りも意識してくれてりゃ、説得力が出たろうにと思うのである。