『男たちの大和』をより深く鑑賞いただくために……
12月に入って、なんか日刊に近いペースで更新してるが、今年最大最後の仕事が完成。
「表現者」別冊『男たちの大和 コンプリートBOOK』(イプシロン出版企画)刊行。
12月17日から公開の映画『男たちの大和 YAMATO』の公式ガイドブックである。
わたしは本書中
【第3章 出演者インタビュー】
・主演:中村獅童(内田二等兵曹役)
・主演:山田純大(唐木二等兵曹役)
【第8章 歴史概説】
・太平洋戦争あるいは大東亜戦争史概略
・戦艦大和のあゆみ
・海軍よもやま話
【第9章 コラム】
・「日本の戦争」を描いた映画12本
・海戦と軍艦の映画
・大和と日本の戦争を知るためのブックガイド
を(ところにより河田(=ばくはつ五郎)と分担で)担当。
このほか、監督・脚本の佐藤純彌、製作の角川春樹、原作の辺見じゅん他のスタッフ各氏、貴重な実際の大和乗組員生き残り小林健氏、八杉康夫、各氏のインタビュー、阿川弘之、西部邁、森達也各氏の寄稿などが詰め、単なる映画『男たちの大和 YAMATO』の公式解説本に留まらず、読み応えのある一冊になってるはずです。
特に、製作総指揮の高岩淡氏のインタビューは、東映という会社の裏話部分がイイです。わたしが行った山田純大氏インタビュも、枚数の関係で『大和』と直接関係ない部分は渋々カットいたしましたが『ムルデカ』撮影時の裏話(インドネシアで現地日本兵の生き残りと会った話、軍服を来た山田氏の姿を見て当時を思い出し、涙ながらに敬礼するお爺さんがいたとか)など、非常に面白かったのです。
なお、第9章で取り上げた作品は以下の通り。
- 「日本の戦争」を描いた映画12本
- 『明治天皇と日露戦争』(新東宝 1957年 監督:渡辺邦夫)執筆:河田
- 『二百三高地』(東映 1980年 監督:舛田利雄)執筆:河田
- 『大日本帝国』(東映 1982年 監督:舛田利雄)執筆:河田
- 『軍旗はためく下に』(東宝 1972年 監督:深作欣二)執筆:佐藤
- 『シン・レッド・ライン』(20世紀FOX 1998年 監督:テレンス・マリック)
- 『激動の昭和史 沖縄決戦』(東宝 1971年 監督:岡本喜八)執筆:河田
- 『日本のいちばん長い日』(東宝 1967年 監督:岡本喜八)執筆:河田
- 『ああ決戦航空隊』(東映 1974年 監督:山下耕作)執筆:河田
- 『肉弾』(ATG 1968年 監督:岡本喜八)執筆:佐藤
- 『人間魚雷回天』(新東宝 1955年 監督:松林宗恵)執筆:佐藤
- 『プライド 真実の瞬間』(東映 1998年 監督:伊藤俊也)執筆:佐藤
- 『アンボンで何が裁かれたか?』(ワーナー 1990年 監督: スティーブン・ウォレス)執筆:佐藤
- 『少年時代』(東宝 1990年 監督:篠田正浩)執筆:河田
- 海戦と軍艦の映画
- 『戦艦大和』(新東宝 1953年 監督:阿部豊)
- 『連合艦隊』(東宝 1981年 監督:松林宗恵)
- 『戦艦大和』(フジテレビ 1991年 監督:市川崑)
- 『ハワイ・マレー沖海戦』(東宝 1942年 監督:山本嘉次郎)
- 『太平洋の嵐』(東宝 1960年 監督:松林宗恵)
- 『日本海大海戦』(東宝 1969年 監督:丸山誠治)
- 『日本海大海戦 海ゆかば』(東映 1983年 監督:舛田利雄)
- 『トラ・トラ・トラ!』(20世紀FOX 1970年 監督:リチャ^ド・フライシャー/深作欣二)
- 『ミッドウェイ』(ユニヴァーサル映画 1976年 監督:ジャック・スマイト)
- 『ローレライ』(東宝 2005年 監督:樋口真嗣)
- 『亡国のイージス』(松竹 2005年 監督:坂本順治)
※この項目は全部わたしが執筆した
- 大和と日本の戦争を知るためのブックガイド
- 吉田満『戦艦大和ノ最期』(講談社学芸文庫)、『戦艦大和と戦後』(ちくま学芸文庫)執筆:河田
- 『図説 太平洋戦争』(河出書房新社)、猪木正道『軍国日本の興亡』(中公新書)、猪瀬直樹『昭和16年夏の敗戦』(小学館)、児島襄『開戦前夜』(文藝春秋)、児島襄『太平洋戦争(上・下)』(中公新書)、鳥巣健之助『日本海軍 失敗の研究』(文藝春秋)、末松太平『私の昭和史』(みすず書房)、大江志乃夫『世界史としての日露戦争』(立風書房)、本宮ひろ志『国が燃える』(集英社)、かわぐちかいじ『ジパング』(講談社)執筆:佐藤
- ジョン・キャンベル『第2次世界大戦(上・下)』(小学館)、ジョン・ガンサー『天皇・FDR・マッカーサー』(集英社文庫)
- 山田風太郎『戦中派虫けら日記』(講談社文庫)、『戦中派不戦日記』(ちくま文庫)、荒俣宏『決戦下のユートピア』(文藝春秋)執筆:佐藤
- 児玉隆也『一千五厘たちの横丁』(岩波現代文庫)執筆:河田
- 週刊新潮編集部『マッカーサーの日本(上・下)』(新潮文庫)、三島由紀夫『英霊の声』(新潮文庫)執筆:佐藤
- 城山三郎『大義の末』(角川文庫)執筆:河田
- 水木しげる『総員玉砕せよ!』(講談社文庫)執筆:佐藤
- 古山高麗雄『23の戦争短編小説』(文春文庫)
……はっきり言って、我々ごときがあの戦争の実相を語りきれるわけなどないと思ってはいる。しかし、2005年現在、我が世代が最低限眼を向けておくべき指標作りの一歩ぐらいは果たせたかも知れない。
『男たちの大和』本編の方は、まあ公開を剋目して待ってください、ということで。
思えば、こっちとしては『TONE』第二号戦争特集から、日露戦争100周年企画の『名将ファイル 秋山好古・秋山真之』、ときて、戦争漬けの一年であった……。
断絶と連続
さて、どうも最近、わたしのこの日録は、差別が好きな人には嫌われ、反戦が好きな人には好かれているらしいが、誤解を恐れずに述べておくが、わたしは「大東亜戦争は必然だった」という姿勢を取っている。
戦争自体の是非などといえば、そんなもん当然平和な方が良いに決まっている。だが、結果と関係なく、なぜ戦争は起きたのか、それに関与した個々の人々の心情はいかなるものだったか、ということに寄り添って考える必要はある。今回担当した大東亜戦争概説史とシネマガイド&ブックガイドでは、そのような態度に務めた。
今回少しだけ心残りと言わざるを得なかったのは、字数は限られているし、この話をしだすと大幅に話が横道にそれるのでやむなくカットしたのだが、日本の戦争について語ろうとすれば、避けて通れない筈なのが、天皇と軍隊、国民の関係の問題である。
とにかく、今となっては、多くの人間が認めたがらないが、実際、なぜか、戦時中は、皆口をそろえて「天皇陛下万歳!」と言って死んだ(かつて吉田司は、小林よしのり『戦争論』で特攻隊員が「お母さーん」と叫んで死んだと描いてあるのは戦後的解釈だと批判している)。そして、敗戦後の巡幸では、焼け跡の日本人の大多数が、人間宣言した天皇に万歳万歳と言って日の丸の小旗を振って熱狂した。
ミもフタもなく言って、今の日本人は、この光景を、下手をすれば保守陣営の人間でさえ、恥ずかしいことだと思って忘れたがっているのではないか?
現代のわたし個人は、人間昭和天皇、平成天皇個人への敬愛心は特に持てない。
しかし、かつて、戦後の80年代においてさえ、全国の少年院で昭和天皇の伝記ヴィデオ(「国民文化研究会」という日教組と対立する国学系の教育団体が作ったものらしい)を上映したら、収監されてる少年らが感動して更生したとか、阪神大震災後の被災地を平成天皇が見舞ったら、高齢の罹災者たちが心から感動した(村山富市や橋本龍太郎が来ても、あんなに感動する事はありえまい)とかいう話は、自分がそれに共感するかどうかはともかく、無視するわけには行かんのだろうなあ、とは思っている。
本年公開の『ローレライ』では、天皇という戦後世代にとってはキモチワルイ要素を抜いた冷静なナショナリズムを描くつもりでか「天皇陛下万歳」ではなく「日本民族万歳」と叫んで死ぬ青年将校を出した。この作品はSFだからといってしまえばそれまでだが、歴史を、自分がそれに賛成するか否かはともかく、事実は事実とそのまま描く事を放棄し、理解できない歴史を無理に理解できるように歪めてしまっているようにも見えなくない。
当時の日本人は、現代の視点から見れば、圧倒的に、少ない情報と狭い世界観の中で生きていた。日本の外などまるで知らない。同じ日本語が通用し、ということは、つまり「天長さま」の支配が及ぶ範囲が自分にとっての「世界」の広さだった、ということなのだろう。だが、実は、交通と情報が発達した現代においても、一人の人間が身体的に実感できる世界の広さは大して変わってないはずである。
恐らく、戦時中の日本人にとっては、いよいよ追い詰められての自決などの際に「天皇陛下万歳」と叫んで死ぬ時、頭をよぎっているのは、実体としての人間昭和天皇ではなく(というか、実際、ほとんどの日本人は天皇に会ったことなんかないんだし)、自分と同じように「天皇陛下万歳」と叫んで死ぬ同じ日本人の絆を確認する行為だった、と考えるべきではないか。
本書の第9章で『軍旗はためく下に』の解説などでは、この点を意識しながら書いたが、現代の自分がそれに賛成するかはともかく、とにかく、当時の国民は天皇を中心に精神的な一体感を形成していたのであろう、という心情を説明するためにも『拝啓天皇陛下様』を取り上げることは必要であったかも知れない、イカン遺憾、と思うばかり……
今日にしてみれば、恐らく、皆が皆、天皇陛下万歳を唱えた戦時中とは、恥ずかしい過去であろう。
現代に生きる我々は、自分らを、戦時中に比べれば正しい人間だと思いたがっている。
だが、我々はある日イキナリ空中から生まれて存在しているのではないのだ。当人がそれに賛成するか反対するかに関わらず、良くも悪くも、自分の父母、さらに祖父母、その前、という、過去の歴史的連続性の積み重ねの上に、我々は生まれてきて、生きている。
だから、戦前戦中の人間を、現代の自分とキッパリ一線引いて過去の野蛮な人たち、あーいうのって困ったもんねえ、ボクは違うよと切り捨てて他人事のように批判するしかできない戦後平和主義者も、あるいは、戦前戦中いいことをした日本人だけを同族と見なし、残虐行為の類(そんなもん、日本一国に限らず、どこの国もやっている)を行なった人間の存在は一切切り捨てて見てみぬ振りし、過去の日本は一方的に正しい→今の日本の自分も一方的に正しい、と結局自己肯定が言いたいだけの人間も、同じ穴のムジナである。
かくもねじくれ曲がった歴史をたどってきた日本、されどそれが我らが祖国、今日もなんとなくこうやって生きてる我らの血肉の源なのである……