電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

ザル八分

先月さんざんわめいた当ブログに対するGoogle八分疑惑の件である。
あれから一ヶ月、Googleで、「電氣アジール」+「e-まちタウンPPCマスターカード」で検索すると、Google八分疑惑を伝えた1月18日の本ブログはちゃんと表示されるが、問題の、2006年7月7日と7月18日の記述
http://d.hatena.ne.jp/gaikichi/20060707#p2
http://d.hatena.ne.jp/gaikichi/20060718#p4
は、やはり相変わらず表示されない(Yahoo!の検索でなら表示される)。
しかし、実はいまだに、事態は本当にGoogle八分状態なのか「疑惑」の域を出ない。
というのは、本当に、Googleに苦情が入って検索結果から削除された場合、

Google 宛に送られた法律に関するリクエストに応じて、検索結果のうち 1 件を削除しました。必要に応じて、ChillingEffects.org で削除が発生したことに至った苦情を確認できます。

と表示されるのだそうであるが、この記述が出ないからである。
ためしに、mixiに件のGoogleに引っかからなくなった日の記述を転載したが、今のところ別にmixiに苦情も来ていない。
いずれ、Googlee-まちタウンに直接聞いてみるつもりであるが、あんまり被害者意識前回でわめきたてるのも程々にしておこう。

思想は螺旋状に進展する

KKベスト新書『100文字でわかる哲学』鷲田小彌太・監修(isbn:4584121362)発売中。
わたしは、第二章の「西洋中世哲学」(キリストからルネサンスまで)、第五章の「東洋哲学」(孔子老子ほか)の大部分と、第四章「現代西洋哲学」の一部(マルクスハイデガーなど)のサブ項目を手伝わせていただきました。
だいたい、プラトンからカント、ヘーゲルニーチェ、西田幾太郎etcetc……までを、それぞれ全部百文字づつで説明してしまおう、ってのも畏れ多い話だが、興味のある方にはもっと本格的に進んでもらうための「入り口」として活用して頂ければ幸い。
古典それ自体にはそれ自体としての価値がある一方、「入り口」としての入門書は過去にも多数存在するが、それも時代の変遷と共に新しいものが必要となると思っている。
(思えば、わたしも、浅羽通明氏の『ニセ学生マニュアル』などは1990年当時の地代に即した「入り口」として活用させてもらった)
今回はその手助けになっていれば幸いである……とかエラそうに言いつつ、じつは、最終的には監修の鷲田先生のお手を煩わせてしまったという部分も多いが、「孔子」の項目で「キリストと同様、孔子も存命中は当時の革命家である」なんて一言を書かせてもらったあたりなど、自分としては、呉智英門下、以費塾論語講座出身の面目躍如のつもりです。
と、去る2月11日、その以費塾の同窓会があり(恥かしいことに、自分の参加してた第四期以後ずっと顔出してないのに、やたらいろんな人に「あ、佐藤さんですね」と声を掛けて頂いた)、やっと呉先生や浅羽通明氏に見せられる仕事の一つが出来きましたと言って渡せる良い機会だったのだが、執筆参加した当人のくせ、既に発売されてる事実を知らず、同窓会終わってから気づいた。○| ̄|_……ま、世の中そんなもんだ。
ちなみに、じつは、既に発売の『100文字でわかる 世界のニュース』橋本五郎・監修(isbn:4584121265)でも、左側ページの大部分を手伝ってますが、こっちも結局、最終的にはかなり監修の橋本先生のお手を煩わせてますが、宣伝ついでまでに。

中心なき周縁

先に触れた以費塾同窓会で再会した面々とのさまざまな雑談のひとつにもたまたま上がったのが、「天保異聞・妖奇士(あやかしあやし)」の話題。
わたしは最近たまたま別の仕事がらみで、妖怪とか異人とかについての民俗学関係の本を読んでたためもあり、「小松和彦とか宮田登とか網野善彦とか赤坂憲雄とかの本を愛読してる人には面白い作品だよね」と言ったら、「いや白川静も入ってる」と返された、確かに(こっちは漢字の語源とか言語学のハナシ)。
「あやかしあやし」では、直接そう描写されている部分は少ないが、日本で妖怪と呼ばれるものの多くは、じつは、辺境の民であるとか、当時の武家&村落の共同体秩序からはみ出した人間そのもののメタファーだったことが意識的に暗示されている。
この点、今回は久々に、竹田青磁プロデュースの社会派的志向と、会川昇脚本のマージナル志向が絶妙の化学反応でうまくマッチしたようだ。
んが、このアニメ、わたしのようなへそ曲がりには、やはり一点不満がある。
主人公をはじめ主要登場人物が、マージナルな視点の側の人間ばかりで、逆に、当時の「常民」、すなわち一般人、普通の人間たる、民百姓たちのリアルな心情を描くことがいまいち抜け落ちていないか? ということだ。
なにしろ、主人公、竜導往壓は元武家なのに入墨者の浮民、そのお仲間は、山の民(蝦夷の末裔)、破れ神社の神主、遊郭住まいの不法入国外国人、歌舞伎役者の後継ぎ崩れ、あとは、蘭学者の旗本もいるが、まあ大雑把に見て、江戸時代当時の身分制秩序のタテマエから考えたら、マトモな階層の人間がほとんどいない。
こういうマージナルな人々に着目したのは、「江戸時代とは封建身分制秩序で、少数の武士階級に多数の農民階級が支配されていた」という手アカのついたイメージを覆し、江戸時代すでに身分制秩序の枠を越える自由な人間も少数ながら存在しえた、という新しい史観視点を提示したいがためだろうということはわかるし、その意義も認める。
しかしだ、それでも当時、圧倒的多数の日本人は、武家社会と農村社会の枠の側にいた、そういう人間が、ほとんど非常民の主人公たちと敵対する悪者としてしか登場しないのことには、逆説的な違和感を覚えてしまう。
無論、会川昇もバカではないから、劇中、安易に異界を美化はしてもいない、むしろ、うっかり現実の世界より「ここではないどこか」に惹かれてしまう自分たちオタク人種への自嘲と戒めを意識している感も濃厚だ。
前回は「山の民」の自由さに憧れる定住農耕民の若者に対し、勝手な幻想を抱かれた側が、どこにでも行けるってことは、逆に言えば、どこも帰るところがないってことで、どこであれ、逃げ出した先に楽園なんかない、という現実を突きつけるという、非常に教育的なお話にはなっていたけどね。

多数派が定住しなければ世の中は回らない

そもそも、明治期に柳田國男が日本民俗学を創始し、日本人の多数を占める、定住農耕民としての「常民」の概念を作った当時、なぜそれが求められたといえば、それまで「日本人」などという概念はなく、地方ごとそれぞれに「信濃の民」や「薩摩の民」や「尾張の民」だったものが、明治維新で初めて「日本人」という概念が生まれたが、さて、では我々「日本人」とはいかなるものか? と、自分自身を理解するためだったのではないか?
かくして柳田は、各地方ごとに違いはあれど、日本人とは、おおむねのような民である、という常民概念の輪郭を描き出した。現在の視点で、これをしょせんは明治帝国主義国家の政策に寄与する行為、と貶めるのはたやすい。が、明治当時とは、西洋列強の東洋進出に対抗するため対外的に統一的な国家と国民意識を作ることが避けがたく要求されていた時代だ。
柳田の著作を読んでると、じつは柳田自身、定住農耕民としての「常民」の世界より、山人や妖怪の世界に憧れを抱いていたことがバレバレなのだが、表向きは、新興産業国家たる明治日本の農政官僚としての使命をまっとうした。
……と、それから数十年、戦後の産業構造の激変は、「常民」の概念を変えた。そもそも農業従事者が圧倒的に少なくなり、皆がサラリーマン世帯ばかりになっては、従来の民俗学の思考も方法論はなかなか通用しない。
そんな1970〜80年代の時期になって起きたのが、先にあげた、小松和彦宮田登網野善彦赤坂憲雄などの「異人」「辺境」「非常民」に着目したマージナルな民俗学、とくに、定住農耕民としての「常民」の世界からはみ出した者たちのメタファーとしての妖怪論だった。現在では、土蜘蛛も天狗も酒呑童子も、大和朝廷から僻地に追いやられた民の暗喩だったことが良く知られている。70年代の伝奇小説もこの流れの影響下にある。
しかしである、こういう、「異人」「辺境」「非常民」に着目したマージナルな民俗学ばかりが、その奇をてらったカッコよさゆえ普及する一方、本来の日本人多数、「常民」とはいかなるものかを地道に考える民俗学は、停滞の一途を辿ったようだ。大月隆寛の『民俗学という不幸』(isbn:4787230514)は、本来、それを嘆いたものだった。
以前も書いたが、浅羽通明『右翼と左翼』(isbn:434498000X)の一節にこうある。

おそらく「自由」「平等」の思想は、人間が求めるあり方の一面しか充たしてくれないのでしょう。縛られず、序列づけられず、個として生きたい欲求と同程度に、人間は、崇敬できる権威から自らの使命を与えられ、世の中の序列のどこかに正しく位置づけられたい欲求を持っている。そうされてこそ、人は生きる意味に充たされ、安心立命できるのですから。しかし、「左翼」の思想は、解放闘争の戦列に加わるかたちでしか、この充実を与えてくれないのではないか。(p237)

江戸時代も確かに自由を求める民は数多くいたろうが、それ以上に、自ら身分制秩序の枠に安住しようとした民も多かった筈だ。それもまた、弱い存在が生き延びるための手段である。
「あやかしあやし」では、武家社会秩序に尻尾を振る側の人間はほぼ悪者となっているが、実際には、弱者なるがゆえ、武家社会秩序に尻尾を振り、その代わり、浮き草のような非常民にはできない忠義心を発揮した者だっていた筈だ。それを単純に責められるか?
幕末に活躍した新撰組などその良い例だった。近藤勇土方歳三も、元々は多摩の田舎の百姓あがりである。それが幕末期、フヌケた武士よりはるかに武士らしい(裏を返せば狂信的な、ともいえるが)、滅私奉公の忠義心を発揮したのは皮肉としか言いようあるまい。
……とか、思ってたら、本日放送「あやかしあやし」に、ついにその、侍に憧れる百姓あがり、ドカタ歳三が登場した! よし、ちゃんと考えてるのか?
さて、武士道を捨てた男、竜導往壓と、武士に憧れる百姓、ドカタ歳三の対峙やいかに? 皮肉な小気味よさで見守っている……