電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

幽霊の話を書いた男の幽霊の話

PHP文庫『「幽霊・妖怪」がよくわかる本』 (asin:4569668879)発売中――って、単に激烈に忙しかったからとか、放っといたらとっくに納涼怪談シーズンは終わってしまった。
今回は「日本の幽霊」の章を担当、平将門とか菅原道真あたりから、番町皿屋敷のお菊だの、東海道四谷怪談のお岩だの、ドサクサにまぎれて三島由紀夫の幽霊の話とか書いてます。

国はなくても民は生きる

天皇反戦・日本 浅羽通明同時代論集 治国平天下篇』(isbn:4344013425)の最後のほうで興味深い紹介をされていた、小松左京日本沈没 第二部』(小学館)を読む。
小松左京は本来「日本沈没」より、この「日本民族漂流記」がやりたかったという。
祖国を失った日本人が、東南アジアや旧ソ連などの移住先でもそれなりの有能さを示しつつ、しかしそれゆえ現地民と対等に接することができず、結局、やっかまれて各地で衝突が起きるという展開は実に嫌なリアル感がある。
ただし、なぜか「祖国がなくなった場合の日本のナショナリズム」を語ろうとしているのに、天皇についてはいっさい触れていない(矢作俊彦『あ・じゃぱん』はこれを補完しているといえる)
かつて戦時中、多くの兵士や一般人が「天皇陛下万歳」と唱えて死んだが、それはただ昭和天皇一個人を指すだけでなく、自分と同じく「天皇陛下万歳」と唱えて死ぬ圧倒的多数の「日本人」の絆、帰属意識の確認行為であったはずだ。
1931年生まれの小松左京がこれを理解してないはずはないが、実際の執筆を行なった1951年生まれの谷甲州にそのへんを吹き込まなかったのだろうか。
本作品のテーマは、イスラエルを再建国する前のユダヤ人のように、コスモポリタン化することで日本人が生き延びるシミュレーションであるらしい。
余談ながら、しばし前、古くからの畏友がアメリカに渡ってニューヨークに住みはじめたが、現地ではチャイニーズもコリアンもなく、「アジア系」のひとくくりでけっこう仲良くしているというのが興味深かった。帰属する土地を離れた時、やっと対等になれるという例か。

戦後が舞台の戦争なき特攻映画

ついでに映画版『日本沈没』昭和版と平成版のDVDを立て続けに観てみる。
昭和版については多くのことが語られているが、これは本当に「日本人・日本民族」を描ききろうとした、「戦後が舞台の戦争なき戦争映画」である。もっとも、あの空気感は、まだ作り手に戦争経験世代が少なくなかった1970年代ゆえにかろうじてなしえたものだ。
平成にこの空気は無理だが、一個人的には、平成版は予想していたよりは好感が持てた。
平成版では原作と昭和版の重要人物である「渡老人」は登場しない。実際、児玉誉士夫のようなフィクサーは平成の世に現実にはいないのだから(強いて言えば川内康範ぐらいか? 渡辺恒雄中曽根康弘フィクサーに見なせるかは微妙)、今やあからさまな架空の物となってしまうものを知ったかぶりで描いてくれても困る。
代わりに、古い日本の土着庶民の感覚の代表とされ、沈む日本と運命をともにする覚悟を決めているのが、主人公の田舎の地味な母親となっている。これは嫌な感じがしない。
当初「田所博士がトヨエツかよ」と思ったが、田所博士のキャラクター自体を変えた結果、豊川悦司のイメージが意外によく合ってくれている(昭和なら岸田森あたりが演じるキャラクターのようなイメージだろうか)
柴咲コウのような美少女が消防庁のレスキューにいるかよ? というツッコミはさておき、人命救助にあたる人間を中心に据え、その日常を描いた点は『海猿』と同様好感が持てる。
ラストで主人公が、特攻兵器人間魚雷回天のごとく生還できない自己犠牲に身を投じる展開は、よく考えてみれば同じ樋口真嗣監督の『ローレライ』と同じか。
いささか図式的ではあるが、これは東宝特撮映画(かつてそのスタッフ・キャストは東宝戦争映画とほぼ共通だった)の王道だ。
敗戦の記憶も濃かった昭和29年当時、初代のゴジラを諌めるため、平田昭彦の芹沢博士は自ら人柱となった。人間が神の如き自然の脅威に対峙するには、自らの命ぐらい出さねば釣り合わない、というのが、古来の日本人の自然観だったのである。

予選敗退後の夏

那須きのこ『DDD』(第二巻)を読む。
第一巻では、この手のラノベ類の中では、メンヘラ系の人間の甘えへのツッコミが容赦なく、それでいて別に他人事扱いでバカにしているわけでもなく、「健全な身体あっての健全な精神」という自戒(この作品に登場する異常犯罪者は、すべて精神の歪みが肉体に具現化したものである)の込められた姿勢に割と好感があった。
で、第二巻は「甲子園に行けなかった高校球児のその後」の話である。まあ正確には「超能力元球児路上バトル小説」だが、さりとて少年ジャンプの漫画のような雰囲気とも一風違って、意外なまでにまっとうな青春小説にも仕上がっている。基本テーマは、すぎむらしんいち『サムライダー』と同様、青春を切り上げた男と、青春のまま時間が止まって怪物化してしまった元ライバルの対決、というパターンにも読めなくない。
那須と同業の、この手の文系内向型のライトノベル作家とか、エロゲーシナリオライターの作品では、コンプレックスの裏返しなのか、人間観の幅の限界なのか、えてして「体育会系」「運動部員」というものは、単純粗野なドキュン、汗臭いバカと矮小化して描かれるか、宮下あきらの漫画のように過剰にバロックなものにデフォルメされがちである。
が、この『DDD』では、主人公の石杖所在の後輩で、実質、第二巻の副主人公である元野球部スラッガーの霧栖が、善人でも悪人でもない、みょうな実在感のある人物として描かれていて、ちょっと意外な好感が持てた。少なくとも『木更津キャッツアイ』の、元野球部員という設定の主人公たちよりはずっと実在感がある。
――体力も人望も人並み以上にあるが、一番になろうという気概はない。当然努力はしているが、スポーツは楽しむためと思っていて、勝つことに執着はなく、引退後も未練はない。野球に深い愛着があったからこそ、引退後は潔くバットを振るのを一切やめている。面識ある身内には情に篤いが、赤の他人相手には平然とワルいこともする――こういう、善人でも悪人でもないヤツ、本当にいそうだし、身内なら仲良くできるが、本質的部分ではこちらの軽薄さを見抜いてたりしそうなタイプだなあ、と思った。
しかし、この作品を、キャラ萌えとか、超能力だののSF・伝奇的ギミックなどでなく、こういう部分で評価してる人間が果たしているかは不明。少々もったいない気がする。