電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

文庫を片手に勇者様気取り

2005年秋刊行の『「世界の神々」がよくわかる本』(isbn:4569665519)以来続けてきたPHP文庫の神話・伝説・ファンタジー概説シリーズも遂に5冊目に突入で、『伝説の「武器・防具」がよくわかる本』(isbn:4569669182)が刊行。今回は――
 I.剣(両刃の刀剣)
 II.刀(片刃の刀剣、おもに日本刀)
 III.長柄武器(槍、鋒ほか)
 IV.打撃武器(斧、ハンマーほか)
 V.射程武器(弓、投擲武器ほか)
 VI.防具(鎧、兜、盾)
――という構成で、当方は筆頭の「剣」の章を担当しました。具体的には、エクスカリバーとか草薙剣とか干将莫耶とかを執筆(他の章ではグングニルの槍やら妖刀村正やらイージスの盾が登場)。もう1冊まるごと「体は剣で出来ている」みたいな感じ。
ただし今回は、一部、伝説・神話上のものと実在物が混在という、従来のPHP文庫のこのシリーズからすると少々変則的なスタイルとなってます。
さて、今回は「剣」の章だったわけだが、両刃の「剣」というのはほとんど西洋・ヨーロッパ文化圏のものなので、書いてていまひとつヴァリエーションをつけるのに苦労したもの、逆に言うと、そのヨーロッパの中での、ケルト系神話とゲルマン(北欧)系神話の共通要素・起源とかが見えてきたのが面白かった点か。
アーサー王愛用のエクスカリバー(岩から引き抜かれた聖剣)の伝承の原型は北欧神話のグラム(ジークフリートの剣)で云々、ぐらいはどっかで読んだことがあっても、それをさらに遡ると、中央アジアカフカス地方にまで同様の伝承があった、って知ってた? いや、俺も今回調べて初めて知ったんだがw
こういうのは、一見なんの役に立たなくても、調べてくとなんか面白い。
といった具合で、今回は読者の皆様に、文庫を片手に「勇者様物語の生成過程」を楽しんで頂ければ幸い。

「中立的な世界文学」は存在しえるか?

さて、このブログはどうも左巻き人間にウケが良いらしいので、たまにはそれをひっくり返すようなことを書きたい。
結局『カラマーゾフの兄弟』新訳版まだ読んでないくせに、月刊『ユリイカ』がドストエフスキー特集、というので、なんとなく立ち読みしたら、佐藤亜紀女史が、ドストエフスキー作品のひとつの特徴であるベタベタなロシアキリスト教賛美や反ユダヤ主義の部分を、わりと辛辣に指摘していた。
あ、嫌ないいこと突くな、と思った。いや、ドストエフスキーが現代なお「世界文学」として読まれうる作家と思いたがっている人間にとって、彼の作品中のこういう部分は、できれば無いことにしたい点だろうから。
じつは、わたしはもう10年ばかり前、一度佐藤亜紀女史と軽く意見のやりとりをしたことがあり、そのときも書いたが、どうもこの人は、頭の中が見事に脱日本人化していて「どこの国のナショナリズムも等しくくだらない」という見識の持ち主でいらっしゃるらしい。
彼女のある種徹底したスタンスには敬意を表する部分もある。が、それでもなお、言いたいこともある。
なるほど確かに、ドストエフスキーは、じつはひどい差別作家である。『悪霊』ではユダヤ人だけでなく、ドイツ人もぼろくそにけなしてるし、確か『カラマーゾフの兄弟』ではカソリック教会も罵倒対象となっている。一方、『白痴』では、主人公ムイシュキン公爵の口を借りて、恐ろしく楽天的で夜郎自大なロシア(スラブ)民族主義礼賛まで飛び出す。どこが世界文学やねん、ただの偏狭なナショナリストやん、と言うしかない……
だが、わたしは、ドストエフスキーが、かような偏りを持った作家だからケシカランなどとは一切思わぬ。むしろ、だからこそ面白い作家なんじゃねえか! と断言する。
ドストエフスキーが作家として大成したのは、1860年代、年齢的には40代になって以降である。その約20年前、1840年代当時の若い頃のドストエフスキーは、ロシア土着の田舎臭い空気が嫌いで、西洋近代文化に憧れる青年であったらしい(日本の明治期の都会のインテリ青年の多くと同様だ)。
が、ロシアでは、欧州全土を吹き荒れた1848年革命への弾圧の余波で自由主義者や文学者が多数逮捕、流刑にされる。ドストエフスキーもそれに連座し、シベリア送りの末、一時は死刑を宣告されるが、恩赦によって奇跡的に生還する。
彼はこの一連の「挫折」で、近代自由主義なんつったってそんなもん、しょせん一部の西洋かぶれの若いインテリだけの夢想で、ちっとも現実性なんかないじゃないか、と、土着や伝統に目を向け直す。で、結局ロシアキリスト教の賛美へと「保守反動化」したわけだ。
と、そんな彼の経歴は。60年安保闘争では全学連の指導者だったのに、運動に挫折し伝統保守主義へ「回心」した西部邁に似ていなくもない。
西部邁は、口では伝統が大事伝統が大事という人だが、じつは全然、日本の土着的伝統文化に馴染んでいない人間である。が、近代主義の限界は実感的に学んでいるから、自分自身それが身についてもいないのに、とにかく伝統が大事ということだけは言う。
本当に伝統土着の価値観に馴染んだ人間は、そんなことはわざわざ今さら声高に言わない。生粋の京都人は、無粋者相手には、感情を荒げることなく、はんなり口調で「ぶぶ漬け食べてきなはれ」と言うだけである(さっさと帰れ、という婉曲表現)。
後から伝統土着文化を尊重する立場になった人間は、付け焼刃ゆえに、いきおい、その口調も変に過激にもなる、ドストエフスキー作品中のユダヤ人罵倒やカソリック罵倒はその表れなのだ。
カラマーゾフの兄弟』には、おそらく、ドストエフスキー自身の理想像らしい、ゾシマ長老というロシア正教の聖人が登場する。聖人といっても、ちっとも権威的でなく、女性と一緒にお茶を飲むのを楽しむ、わりと自然体の人物である。
んが、ドストエフスキー自身は、ちっともこのゾシマ長老のような穏やかな人物ではなかったようだ。しかし、付け焼刃で伝統的信仰に回心したような人間なればこそ、著名な大作家になって以降も、夏の日も雪の日も毎日欠かさず教会に通って最後列でお祈りしてた、とかいう地味ぃな「信仰心の実践」を示したという。
わたしは所詮、バテレン信者でもないし日本人であるから、ドストエフスキーの説く、スラブ(ロシア)キリスト教思想の中身など、ほんとにそんな立派なものか? と思うが、何の信者であれ、こういう地味ぃな「信仰心の実践」をムゲに嘲弄して済ませたくない。

すべての物語は固有のナショナリスムから逃れられない

話をバテレンの国ではなく我々自身の日本に置き換えるなら、『拝啓天皇陛下様』の渥美清演じる山田二等兵のような、戦前戦中の日本人が持っていた天皇制への信仰心は、現代に世界普遍的な目で見れば、ドストエフスキー夜郎自大なロシア賛美と変わることなく、ひたすらこっ恥かしいだけのシロモノだろう。
それでも、渥美清演じる山田二等兵は、良くも悪くも、ある時代の日本に実在した人間像である。それを戦後の平和しか知らない日本人が安易にバカにできるのか?
以前も書いたが、我々人間は皆すべてある日いきなり空中から生まれてきたのではないのだ。いくら、どこの国のナショナリズムも等しくくだらないと気取っても、自分がたまたまその国に生まれ、その父母、その祖父母もその国で生まれ育った、という歴史的連続性の産物として自分が存在することは覆せないのである。
前述の『伝説の「武器・防具」がよくわかる本』では、中世フランスの騎士道文学である「ローランの歌」で主人公の英雄ローランが使用した剣デュランダルを取り上げた。
この「ローランの歌」はスペクタル文学としては血わき肉躍る作品だが、本文でもハッキリそう書いたけれど、ミもフタもなく言ってしまえば、十字軍時代のキリスト教プロパガンダ文学である(なんせ、イスラム教徒はまるで悪鬼のように描かれている)。
だが、だからくだらないなどとは言えない。だからこそ、少年ジャンプ漫画のような下世話なヒロイズム全開の面白さがあるとも言えてしまうのだ。
『伝説の「武器・防具」がよくわかる本』執筆に際しては、世界史の参考書を引っ張り出し、ヨーロッパの中世史を読み返した。で、考えてみると、「ヨーロッパの中世」が西ローマ帝国の崩壊からルネサンスまでとすると、じつに「中世」が一千年も続いたことになる。ではその一千年とはなんであったかというと、欧州各国各民族固有の神話伝承が、キリスト教によって一色に塗りつぶされてゆく過程だった、と見えなくもない。
聖剣を振るったアーサー王ジークフリートは、ヨーロッパがキリスト教化される以前の英雄だったのである。
現代に生きる我々には、アーサー王ジークフリートスサノオミコトも関羽も大昔の伝承上の英雄、ということで等価に見えるが、近代以前、その時代に現役の英雄で、世界のどこの国にとっても英雄と呼ばれえる英雄など、ほとんどありえなかった。
だから言う。ドストエフスキーは、ただの偏狭なロシアナショナリスト作家である。でも、だからその目指す理想像、ヒロイズムも明確で、わかりやすく、面白いのである。
だいたい、どうあっても差別的にならず、万人に平等な内容の「普遍的な正しさ」が目的の文学があったとして、そんなもん、どこが面白いかっつぅの。
ジャーナリスト専門学校時代の我が師匠の一人は言いましたよ「愛は差別である」(→かけがえのない愛情の対象と、それ以外とを差別することからすべては始まる)と。
つまり、すべての文学、物語は、差別から生まれるしかないのだよ。