電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

沖縄戦自決強要問題は「空気読め」問題である

えらく今さらな話だが、なんでも「KY」(空気読めない)を流行語大賞にさせようという運動とやらがあるらしい。
ハテ、空気とやらはそんなにエラいのか?
奇をてらってのコジツケ話ではないが、昨今、これまた今さらのように「戦時中の沖縄集団自決は軍命令だったかどうか論争」が騒ぎになっている。
以前も書いたが、わたしはこの問題も「空気」云々と深く関係すると思っている。
果たして昭和20年の米軍沖縄上陸時、日本の軍中央から明文化された正式な公文書で「島民は捕虜となるより自決せよ」などという命令が出ていたかといえば、出ていなかった可能性は充分ありえる。
が、明文化された正式な公文書でなくとも、島民と直に接するような下っぱの小隊長、分隊長レベルの下級将校や下士官から、明言はしないものの「暗黙の要請」という形で、「米兵が来たら、そのぉ、まぁ、何つぅか、日本人として恥じないよぉに頼むわ、な、わかっとるやろ?」などと言われれば、それはもう既に「ここで自決しなけりゃ非国民だろ、空気読め」という圧力であろう。
あるいは「自決してくれたらありがたいなあ」がいつの間にやら「自決してくれと言われた」になってた、という伝言ゲームの可能性だって充分ありえる。
そういうことを考えれば、公文書での集団自決命令があったかどうかを問うなど、到底アホらしいというものだ。
これまた以前も書いたが、わたしはひょっとしたらヒトラー当人はユダヤ人大虐殺の命令を直接下していなかったかも知れないし、ひょっとしたらスターリンは大粛清の全貌を知らなかったかも知れないが、それでも彼らには責任の一端はある、と思っている。
(恐らく、中共文化大革命に際しても毛沢東の意志さえ離れた現場の紅衛兵の暴走による虐殺は多々あったろう←無論、同時に、それが毛沢東を免罪するものではない!!)
それと同じ事だ。

奴らは直接「俺のために血を流せ」などとは言わない

今さらな話ばかりだが、円天だかL&Gだかという悪徳商法が話題らしい。
その会員の間では、とにかく新規会員を増やさないとならないという「空気」が支配的だったという。

L&G被害者「誰かを誘わないと…、という空気だった」
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/87991/

このテの団体の言い草は決まっている。
「絶対に儲かる」とも「俺のために働け、俺のために金を稼げ、俺のために新規会員を増やせ」なんて陳腐なことは絶対に言わない。
とにかく「やってみなくちゃわからない」と言い、既に「信者」となっている集団の昂揚感の中に人を放り込んで、この昂揚した「空気」に従おうとしないアンタはなんて卑小でツマラナイ人間なんだ、という気分を味あわせる、というものだ。
周囲の「空気」に叛らえず、「空気」に合わせるのは良いことだと「空気」性善説が染み付いている人間は、こういう「空気」の中に放り込まれる、命令されなくても、自らほいほいとと金儲けマシーンに成り下がる。

人は毎日暴力をふるって生きている

この際ハッキリ述べておくが、「空気読め」は暴力である。
だが、暴力だからイケナイ、などと陳腐なことを言う気はない。それを言うなら、人間と人間の関係はすべて暴力だ。
わたしも毎日暴力を振るって生きている。西友地下食品売り場で通りすがりの見知らぬおばさんとぶつかりそうになり、内心で(おばさん、どけよ)などと思うことが毎日あるが、内心でそう思っているだけであってもそれはやはり暴力だ。だが逆におばさんのほうも(ナニよ、こっちは小さい子供を連れた善良な主婦よ道を譲りなさいよ)と思っているかも知れない、それもまた暴力なのだ。
だが、そんなことでいちいち「どけよオバサン」などと怒鳴っていてはキリがないので、ただ気まずい顔をして道を譲ろうとし、何事もなく買い物を続ける、しかしこれもまた、西友地下食品売り場の幅80センチの通路をめぐる戦争なのである。
これは一切冗談ではない。
クラウゼヴィッツは戦争は政治の継続であると唱えたが、逆に言えば、政治(自らの勢力を正当化し、その利益を拡大しようという行為)それ自体には、常に暴力が内包されていると考えられる。その手段が、流血沙汰の腕力によらないというだけのことだ。
世の中に、腕力に訴えない暴力はいくらでもある。
世の消費者金融が「恐いサラ金」のイメージを払拭するため若い女の子を使った広告・CMで「私たちは善良な企業です、わかってよ、ね」と迫るのも、手段としての暴力の一つの形なら、朝日新聞社の『AERA』が、毎週のように「○○弱者」「××弱者」と「弱者」を捏造してまで「僕らは弱者の味方なんです、わかってよ、ね」と迫るのも、手段としての暴力の一つの形だ。
だが、繰り返すが、暴力だからイケナイ、などと陳腐なことを言う気はない。
問題は、それに対する自覚があるかないかの問題だ。
人を殴れば当然相手も傷つくし、同時に自分の拳も痛くなるし汚れる。殴らずに怒鳴るだけでも同様だ。
だからわたしは、通りすがりの見知らぬおばさんとぶつかりそうになっても、いちいち「どけよオバサン」などと怒鳴らず、気まずい顔をして道を譲ろうとするだけで済ませようとするのである。ほかの人間も皆そうだろう。
さて、この場合は、わたしと、通りすがりの見知らぬおばさんの一騎討ちである。すなわち、暴力の主体が明らかになっている。だから傷つく相手も、自分が傷つける主体であることも自覚できる。
しかし、「空気読め」という暴力においては、暴力の主体が明らかではない。
人に向かって「空気読めよ」と言う人間は、大抵、自分個人の感情として、自分から見ての「空気を読まない人間」への違和感を表明しているものだが、それを自分の意見として「俺に従え」ではなく「空気に従え」と言う、それがイヤラシイから困るのだ。

良い子は異物を嫌う

「KY」(空気読めない)を流行語大賞にさせようという人々は、恐らくは「空気に従うのは良いことだ」「自分は空気に従っている」と思っている人間なのであろうと思われる。
そのことと話は少しズレるけれど、これまた前にも書いたが、昨今のネット世論には、「自分は市民社会秩序の側に組している人間=良い子」という意識から、それに反する人間を叩きたいサイレント・マジョリティ(急いで付け加えるが、大抵、その大多数は、ほぼ間違いなく、個々には「直に会えば良い人」である)が増えてるんだろうなあ、という気がする。
しばし前のこのニュース↓なんか、その現れだと思った。

当然?やりすぎ?平手打ち警官に激励2000件
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/it/internet/82900/

この警官を支持した人々の多くは、べつに、国家権力を熱烈に支持するというわけでもなかろうが、まあたぶん「不良っぽい男子高校生=自分たちの秩序に反する側」と見なしたんだろうな、と思う。
だったら、そーいう不良っぽい奴を警察に叱ってもらう前に、自分で直接「アンタ迷惑だよ」と言ってやれよ、と思うんだが、腹の底でそう思っていても、直接言ったら気まずいなあ、と思ってしまうのがまた「空気」で、こういう警官を英雄視するのは、自分たちの「空気」に応えてくれたからなのか? それとも「空気」のために自分自身でものを言えない気まずさの裏返しなのか? ――なんて思うのは、考えすぎだろうか。

当たり屋外交

SAPIO』と『正論』で小林よしのりが「ガンジー主義」と「憲法9条」の違いを論じているが、もっとわかりやすい言い方があるのに、と思った。
ガンジー主義」とは「ハンガーストライキ」と同じだ、と言えばいいのに、と。
ハンガーストライキとは、相手に要求を突きつけて、それを果たさないならば自分が絶食し「要求を飲まねば俺は餓死するぞ」と相手の人道精神に訴える手口だ。
当然、相手が元よりこっちの死を望んでいる場合や、「あいつを餓死させるのか?」という「外部世間の目」がなければ無意味な戦術である。
冷戦につけ込んで日本の安全を守る方便として編み出されただけの憲法9条にそんな気概は当然、ない。
だが、1991年の湾岸戦争当時、浅田彰は「我々は、戦うぐらいならいざとなったら無抵抗で全滅する覚悟があるというのは、全ての戦争が核戦争になり得る時代に対抗できる唯一ラジカルな平和思想」とのたまっている。
これについてくる人間はまずいないだろうが、本当に平和主義に対して「信仰心」のある人間なら、そんぐらい言えなければ欺瞞だろう。
現在の日本人は、表面的には右でも左でも、要は、現代日本人は皆、自分が加害者になりたくないだけではないのか、としか思えない。
前々から考えていたことなので、袋叩き確実の暴論をあえて述べる。
わたしはもう何年も前から、「鳥取砂丘あたりに北朝鮮テポドンの破片が落ちないかなあ」と願っている。
おっと、怒るな! よく聞け! 鳥取砂丘なら死人はまず出ない、だが日本本土に北のミサイルの破片の一つでも落ちりゃ「おい、よくもこっちからは何もしてない人様の領土にブチ込みやがったな」と、被害者様ヅラで思い切り怒鳴ってやれるではないかw
まあ要するに、北の恫喝外交に対する当たり屋外交である。
袋叩き間違いナシの暴論だろうとは思うが、それで「日本だけが一方的に被害者になれて代価を要求できる状況」になるなら、案外、これが今の日本人多数の本音に沿っているのではないか?

「和気あいあい判決」なんて却ってキモくね?

仕事のため、法務省が作った、2009年導入予定の裁判員制度の広報ビデオを観た(『裁判員』という題名のものと『評議』という題名のものの2本がある)
まあ当然、広報映画としては良くできてたんだが、わたしのようなへそ曲がりには、同時に、何とな〜く、この制度の問題点が見えてしまう。
広報映画中では、プロの裁判官と、民間人から集められた裁判員の間で、いかにも和気あいあいと評議が進む、しかしだ、実際には、民間人から集められた裁判員には、自分で自分の意見を決められない人間だって少なくないのではないか?
裁判員制度は、これまで司法のプロに一任されていた裁判制度に、一般国民の意見を反映するためのものと説明されている。だが、むしろ、それこそプロ裁判官の意見によって作られる「空気」によって、一般裁判員は、裁判官に誘導され、却って裁判官の判決を裏づける構図にならないか?
今やってる仕事の一つでは、そのへんの打開の視点のひとつを提示できればと思っている。

生きのびた人と死んだ人

もうひとつ、仕事のため『天皇機関説幕末機関説いろはにほへと』を観る。
戊辰戦争の奇妙な副産物としての、旧幕臣による蝦夷共和国に目をつけたお話である。
榎本武揚がいささか大物扱いすぎるが、確かに、考えてみりゃ、天皇制と関係ない国づくりを本気で考えたのは平将門と榎本ぐらいのものなのかも知れない。
にも関わらず、後世の評価で榎本に小物っぽい評価が拭えないのは、しっかり生き延びて新政府に与しているからだろう。一方、西南戦争に敗れて死んだ西郷隆盛は、それゆ今でも大物扱いだ。皮肉なものである。

実相寺昭雄の「本郷vs蜘蛛男」

これは仕事と関係なく、今さらながら『シルバー假面』を観る。
前評判は良くなかったので期待もしてなかったが、たまたま、これまた仕事のため江戸川乱歩の初期短編とか読み返してたら、その手のネタが盛りだくさんで思わず口元を緩める。
恐らく、なんでシルバー仮面なのに怪人が蜘蛛男なんだよ? と思った向きもいたろうが、当然、仮面ライダーではなく乱歩の蜘蛛男だったんだろなw
実相寺昭雄も戦中派世代に近いわけだが、それにしても、この年代の人間には大正時代が好きな人が多いらしい、鈴木清順しかり、吉田喜重しかり。