電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

貧乏は正しい(by橋本治)

数年前から予告されていた、浅羽通明『昭和三十年代主義』幻冬舎asin:434401491X)がついに刊行。「あ、出てたんだ」と気づくのが遅かったが、やっと読了。
ミもフタもなくいうと、読んだら明るい未来が開けるでもなく、読者を良い気持ちにさせてくれるでもなく、ウケなさそうな本である(失礼)。
これは凡百の、「昭和の時代には、世の中に夢も人情もあった」という昭和懐古礼賛論でもなければ、単純にそれをひっくり返して「いや、昭和こそ、公害も汚職も土着世間の束縛もあるヒドい時代だった」と説く幻想破壊論でもない。
三丁目の夕日 ALWAYS』や『クレヨンしんちゃん オトナ帝国の逆襲』などの昭和懐古ブームから、表層的なレトロ趣味でなく、真に学び取って現代に生かすべきものを再照射する試みだ。
しかしそれは、1970年代〜バブル的的価値観(金儲け経済成長万歳、3K労働よりホワイトカラー、誰もが自己実現、という幸福感)を否定する。これではいかにもウケなさそうだ。だが、それが、低成長、格差拡大の現在こそリアリティあるという説得力は高い。
映画もTVドラマもアニメもリメイクばかりの昨今の昭和懐古ブームは、ありていに言えばバックラッシュかも知れない。だが、単に「バックラッシュだから悪い」では、あまりにも安易な「新しい=正義」という進歩主義の盲信でしかない。バックラッシュを認めた上で、なぜそれが起きているかを考えなければならない。
『昭和三十年代主義』では、橋本治の『虹のヲルゴオル』、吉永小百合の映画『いつでも夢を』などを例にとりながら、昭和の映画だの音楽だのといった「消費」文化より、昭和の「労働環境」「産業のあり方」を照らし直す。
昭和三十年代とは、まだ圧倒的に、日本が第二次産業中心の社会で、ホワイトカラーの勤め人より、家内制手工業的な、家業の商店員や町工場の労働者が多数を占めた時代だった。
そこでは地縁血縁的な束縛も強く、労働時間は長く、自由は少ない。しかし、当時はそれゆえ、家族や職場の中での各人の役割(ひいては、生きがい、存在意義)が明確だった。

人が人を「必要」とする場合、そこに何らかの「人情」がなくては、協働体は円滑に動かず、必要もまた本当には満たされないでしょう。しかしです、逆に「必要」もないのに、ただ純粋に間の信頼だのが宙に浮いたごとくあるというのは、何ともみだらでだらしくなく、気持悪くはないでしょうか。「必要」という筋金が入ることで、しっかり引き締められた「感情」こそは、貧乏から解放されて久しい平成の世の我々が失ってしまった「昭和三十年代の人情」の正体ではないでしょうか。
(p94)

昭和時代、みな小規模な町工場のブルーカラーになるより、大会社のホワイトカラーに憧れた、しかし、現在のシステムが巨大化した第三次産業の大会社では、社員はただの一部品で、差し替え自在の存在だ。ゆえに自由ともいえるが、ゆえに自分の存在意義がつかめない。これでは本末転倒だ。
一方で、労働ではなく趣味を媒介とした共同性もありえるが、そこでは趣味志向の違いによる衝突もありえる。そんな場合は、付き合いたくなければ住み分けられる。だが、そんな関係では、強い責任意識は育たない。だっていつでも逃げられるのだから。

福田恆存のテーゼは、「人間は生産を通じてしか附合へない。消費は人を孤獨に陥れる」と予言していました。生産において人間は、何らかの形で部品となり、また多かれ少なかれ損得計算で働かざるを得なくなって、必要性が主、感情はその従となります。しかし消費は一人でだってできる。好きな人と映画を観たいとか、気の合う友人たちと旅行したいという場合も、あくまで感情が主で全てです。そこには人間が否応なく「附合わさせ」、結び付けられる義理はないのです。
(p111)

仕事に顔のあった昭和、仕事に顔のない現代

産業が高度化してなかった時代とは、仕事が具体的だった時代、ということだ。
一日じゅうオフィスのパソコンをカタカタやっていても、傍目には何の仕事をしているかわからない。だが、畑を耕したり、自動車を修理する仕事なら何をしているかすぐわかる。

プロジェクトX」人気の秘密は、技術系サラリーマンを中心とする主人公たちが取り組む困難な仕事(プロジェクト)が「何の役に立つのか」がきわめてわかりやすいところではなかったか。
(p137)

しかし『昭和三十年代主義』では、吉永小百合の映画『いつでも夢を』の中で、定時制高校出身で工場労働者としての社会人経験もある優秀な青年が、それゆえ就職希望の会社から忌避されるという皮肉が語られる。
ここから浅羽は「普通科進学→会社員」という進路のみをエリート扱いし、実学的な工業高校や商業高校卒は落ちこぼれヤンキーの受け皿にしてしまった高度経済成長期以降の教育システムは、役割の明確な専門技能労働者より、差し替え自在な汎用部品としての会社員を作ることを目的とする価値観に支えられている逆説を暴く。
なぜ、実社会で役に立ちそうな技能学習やアルバイトより、何の役に立つのかわからん受験勉強ばかりが要求されるのか? 高校時代にそう不思議に思ったことのある人は、疑問が氷解する思いがするだろう。いや、俺もだ。
さて、話は横道にそれるが、小泉内閣のブレーンを務めた竹中平蔵石原都政で副知事を務める猪瀬直樹など、今の新自由主義的経済政策、格差拡大を肯定する政財界のおエラいさんの発想は、乱暴に要約すると、以下のようなものである。
 ・これまで:10人が10円づつ儲けている。つまり10人全体の儲けは100円。
 ・これから:1人が1000円儲ける、残り9人は1円づつしか儲からない。しかし(見かけ上)10人全体の儲けは10倍以上になった、バンザーイ。
地方切り捨て、不採算部門切り捨ての自由競争主義とは、端的に言えばこういうことだ。
オイオイ、一見全体が向上したように見えても、儲けが1円の9人はどうすんだよ?(それにどうせ、1人だけ1000円儲けてる奴は、おエラいさんのお仲間だけだ)
なるほど新自由主義的な構造改革論者にしてみれば、それまでの10人が10円づつ儲けるシステムとは、競争原理の欠落した旧い護送船団方式であり、批判の対象になるのだろう。だが、頑張っても1円しか儲からない奴は、そもそも真面目に働く気がなくなる。そっちのほうが世の中が不健全でないか?
上記のような政策を進める側は、旧い産業に従事していて失業した人間は新興業種に転職すればよいと説く。だが、これぞ人間を差し替え自在のパーツと見なす発想だ。
これに対し『昭和三十年代主義』中で、浅羽は、松原隆一郎『消費資本主義のゆくえ』『長期不況論』を引きながら、個人商店の店主として生きてきた人間が簡単にITサラリーマンになったりできない方が当たり前だろう、と説く。まったくだ。
上記のような政策を進める経済官僚自身は、国政の方針ならば、自分のキャリアがまったく生かせない別の職業に転職することも受け入れるというのだろうか?

「軽薄短小」「情報化社会」はもう古い?

『昭和三十年代主義』の後半では、宮部みゆき模倣犯』に登場する犯罪者「ピース」を例に引きながら、昭和三十年代的な堅実さの対極というべき、実体的労働を軽蔑して情報を操る立場にたつことに優越感を覚える心性を容赦なく批判する。
「ピース」は、典型的な、世をナメた劇場型犯罪者だ。彼はせっかく学歴は優秀なのに真面目に働こうとせず、社会的には無力なニート野郎だが、自分の起こした犯罪で世間が騒ぐことで、自分が世の中を操っているような優越感に浸る。
相変わらず2ちゃんねるでは「○○を爆破する」「××を殺害する」式の予告イタズラ(どうせ本当は実行する度胸などない)が絶えないが、その動機の大半も、自分の書き込みで世間が右往左往することで得られる、自分が世界を操っているような全能感だろう。
例によって浅羽は、こうした心性の背景に「実体的で地道な肉体的労働=ダサい/情報や数字を動かすだけの抽象的労働=カッコいい」という、重厚長大な産業より軽薄短小なマスコミギョーカイなどがもてはやされた1980年代以降の風潮を鋭く指摘する。
(このへんは、わたしが以前、高村薫作品での「職業観」を論じた短文とも問題意識が重なる。まさに神の視点を気取れる職業などない、という話だ)
1980年代的な犯罪者「ピース」が徹底的悪役として描かれ、それこそ昭和三十年代的な、下町の地道な職業人をヒーロー側に配した『模倣犯』は、大ベストセラーとなった。
さらに浅羽は、渡辺和博&タラコプロダクション『物々巻』を手がかりに、1960年代、70年代、80年代と、次々に「ナウい」ものが無理やり作られてきたが、もう消費文化の「ナウ」開拓は頭打ちで、定番、オーソドックス、トラディッショナルへの回帰が起きている、昭和三十年代懐古ブームもその流れにある、と分析する。
(このへんも、手前味噌なことを言えば、わたしが先日書いた見解そこからの打開案と重なる。が、そこは浅羽先生、より緻密に分析している)

「役」「キャラ」あってこその個人?

あと、個人的に『昭和三十年代主義』を補完するようなことをあえて言えば、消費マーケティング的な観点で見ると、昨今の昭和リメイク映画、TV映画の全盛状況は、作り手、売り手の立場では、リスクの大きいまったくの新製品より過去の売れ行き実績から安心が見込める商品、という安定志向、消費者の立場では、未知の新商品より、「前から知っているもの」のほうが親しみが持てる点もあるのではないだろうか?
さらにいえば、60年代、70年代、80年代…と、サブカルチャーは常にその時代の若者向けに発達してきたが、少子高齢化で、若者向け市場自体が先細りという問題もある。
アイドル歌手なんてのは常にそのときの10代の若人を客にするのが本来の売り方だが、先ごろモーニング娘。は、ファンに向けて「一緒に歳をとっていきましょう」とアピールしたそうだ
ちなみに、懐古ブームは日本に限らない。欧米でも近年はリメイク映画ブームだ。これは欧米でも、先進国はどこも日本と同様、「ナウ」のネタが尽きて内省の時代に入ったということか? とも解釈できるのだが、今が経済成長期のはずの中国でも文革懐古商売が人気などという現象があるらしい。
これは、産業発展と格差拡大が急激に進む現在の中国でも、社会に一体感があった時代への郷愁が起きている、ということであろうか?
そう、一体感、これは重要なポイントだろう。
『昭和三十年代主義』の後半では、地方都市での若者グループを描く『木更津キャッツアイ』のヒットから、地道な地元サポーターに支えられたJリーグ人気など、小規模だがそれゆえ実体的な地元意識による一体感の復権に着目している。ここには、地域スポーツが求心力を持った近年の例として、四国・九州アイランドリーグも入れてよいだろう。
一体感の復権について、『昭和三十年代主義』の終盤では、福田恆存『人間・この劇的なるもの』からこんな一文を引用している。

「私たちは、一個の蓋が全体から離脱して自立し得るとは考えないが、一個の人間はそれをなし得ると考える」
「人格は完全な自律体である。が、それは全体なしですまし得るということを意味しない。むしろ反対である」
「それは部分でありながら、全体を意識し、全体を反映し、みずから意志して全体の部分になり得るということなのだ」
(p372)

ここでいう「全体の部品」とは、当然、差し替え自在のパーツではなく、もっと実体的で顔のある役割が意識されている。
しかし「人間はみな生まれながらに自由な独立した個人であるべき」と考えている人間には、こういった「人間は社会の部品としての役割を果たしてこそ価値がある」といったような考え方ははなはだウケが悪い。
だが、世の中のすべての人間が、社会の部品としての役割を果たすより、自立した個人として生きようとすれば、日本国は、1億2千万人のロビンソン・クルーソーが、一人一人自給自足しなければならなくなる。そこには役割分担がない以上、助け合いなどないだろうし、お互いにお互いを敵だと思って殺し合いが起こってもおかしくない。
これは極論だが、こう考えると「俺も世の中に役割があってよかった」と思えるものだ。
「全体の中の部品」などというと、人間を機械扱いしているようで、反発する人もいるだろうが、浅羽はこれを、適切な「キャラ」を楽しんで演じること、と説く。
そして、その例として、筒井康隆の小説『美藝公』を挙げる。これは、映画が社会の中心にある世の中を描いたお話で、いわば、あらゆる人間が、映画の出演者や、照明や撮影といった役割を自ら意識して楽しんでやっている世の中、というべきだろうか。
――とまあ、わたしとしては(10数年来の浅羽読者である点を差し引いても)、自分が日頃から考えていたことと重なることをより綿密に説いてくれた点で興味深い書ではあるが、果たして現在の多数の読者に歓迎されるかは難しい。
だが、景気低迷と格差拡大、下流化といった現実状況に対し、一見耳ざわりの良い楽観論よりも、本書は、さまざまなヒントを秘めているのではないだろうか? と述べておく。