電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

汚れた至誠の軌跡

発売以来あちこちで絶賛されていた、佐野眞一甘粕正彦 乱心の曠野』(asin:4104369047)ようやく読了。
なるほどこれは大著の力作だ。凄い。その感想を無理やり一言で書けば――
「やっぱり、屈折のある奴の愛国心は面白い」
――ということに尽きる。不謹慎かも知れないけどね。
甘粕正彦『拝啓天皇陛下様』の山田二等兵のような落ちこぼれではない。陸軍きっての秀才だったが、事故で脚を負傷し、エリートコースの歩兵課を外れて憲兵になった。それがさらに無政府主義者大杉栄虐殺の汚名をかぶって生き、満洲国の暗部を背負うことになる。
本書中では、大杉栄虐殺事件後の甘粕が、当時の愛国者にありがちな通俗的自画自賛日本民族優越論を痛烈に突き放していたり、国民から軍神に祭り上げられた日露戦争乃木希典大将をあっさり酷評していたりと、当時の日本軍人としてはかなり冷静な人物だった傍証を大量に挙げつつ、その一方で甘粕の異様な天皇崇拝の傍証も多く挙げている。
恐らく、みずから主義者殺しの汚名をかぶった甘粕にとっては、それでも「自分は天皇陛下のために働いている」「天皇陛下だけはきっと自分を認めてくれる」という思いが心の支えだったのではないだろうか? 戦前戦中、天皇制がこういう屈折せる男の承認装置として働いた側面は大きい。
憲兵時代から満映時代まで、甘粕は多くの部下や関係者をじつに親身に誠実に面倒をみていた、という傍証も、かような屈折の反面ゆえのいじらしさを感じずにはいられない。
自分のコンプレックスが何かは直視しようとせず、瑣末な差異をあげつらって隣国民を嘲笑して優越感に浸るだけの昨今のネトウヨ嫌韓厨の類には寸毫も共感せぬが、甘粕正彦のような、こういう挫折者ゆえ至誠であろうとした愛国者は絶対に嘲笑したくはない。

遺族をも呪縛した大杉虐殺事件の「空気」

なお、本書が述べている大杉栄(と伊藤野枝、甥の橘宗一)殺害の犯人は甘粕正彦ではなく、軍上層の関与があったという説自体は、ちっとも新しいものではなく、すでに1970年代から竹中労があちこちで力説している。また、出獄後の甘粕が、満洲に姿を現すまでのフランス滞在時代に関しては、やはり本書でも資料不足の壁のため記述は少ない。
が、それでも、佐野眞一の、存命中の甘粕関係者とその遺族に対する徹底した取材ぶりには、ジャーナリストの最末席の斜め下に属する者としては頭が下がらずにいられない。
なんと甘粕正彦の長男と大杉栄の弟が、戦後に同じ三菱電機に勤め、一度だけ同席したことがある、という話などをはじめ、よくぞこんな話を聞きだしたという傍証が満載である。
それにしても、甘粕正彦(とその親族)は、生涯、大杉栄(と伊藤野枝、甥の橘宗一)殺害の汚名によって世間の目を気にしたというが、戦時中には敵国民相手に同様の行為をやっておいて罪に問われなかった人間も平然といたはずであろう。
フランキー堺の『私は貝になりたい』をはじめ、戦後に復員してきて普通に働いていた者でも、戦時中に、うっかり、あるいは命令でやむなく無抵抗の相手を殺してしまいました、という元軍人は、みな黙っているだけで、じつは少なくなかったはずである。
ところが、軍人(憲兵)であっても、戦地で敵陣の人間を殺すのではなく、自国の街中に住んでいる人間を殺せば、一生涯「人殺し」という汚名をかぶる。
いや、そりゃ平時に一般人(主義者であっても)を殺すのと、戦時に敵兵を殺す(これは戦時国際法では違法ではない)のは違う、というのは理屈ではわかっている。それでも、いったい人命とは、いや、世間の目とは何なのだ? と途方にくれるばかりである。

「おしなべて」普及委員会発足宣言!!

ところで、佐野眞一御大もどうやら「すべからく」を誤用していたらしいのを見て少しだけ力が抜ける。
「すべからく」を「すべて」の古風で上等でエラそうな表現だと思って誤用した表記は、酒見賢一の『後宮小説』やら安永航一郎の『海底人類アンチョビー』やら、枚挙にいとまない。どこかで富野由悠季もそう誤用してたのを見た記憶がある。
佐野眞一と同じく、満洲国を論じた『偽満洲国論』(中公文庫)の武田徹も「すべからく」を誤用していた。
浅羽通明の個人ニューズレター「流行神」最新号では、その武田徹を引き合いにして、しつこくこの「すべからく」問題が取り上げられている。
いや、言葉の誤りならわたしも時々やるから人のことは言えない。
呉智英夫子も浅羽先生も指摘しているのは、普通に「すべて」と書いても通用する文章中に、それが古風で格調あるカッコいい表現だと思って「すべからく」と書く、無自覚な気取り、エラそうなスノッブさが鼻につく(それでいて実は誤用なんだから)ということである。
しかし、指摘するだけでは問題は解決しないのかもしれない。
そこでわたしは、どうしても「すべて」の古風で上等でエラそうな表現を使いたい人は、「すべからく」ではなく「おしなべて」という語句を使うことを推奨する!!!!
「おしなべて」であれば、「すべて」の意味に誤用ではない。しかも「すべからく」と同じく五文字で「べ」という文字も入っているではないか!!
つーか、「すべからく」を誤用する人って、マジ「おしなべて」と間違えて使ってる人もいるんじゃないの? と思ってみたり。

空気を読んで崖下に落ちる

例によってまた何を今さらな話の後出しジャンケン的ツッコミ。
8月初め、東京ビッグサイトワンダーフェスティバル会場で、客の乗りすぎでエスカレーターが事故を起こし負傷者が出た。
ワンダーフェスティバルは模型・ガレージキット関係のイベントであるからして、客の多数はオタクだというので、事件直後は「オタク客はマナーがなってない」「いや、会場側の責任だ、オタク叩きをするな」という議論が一部で起きたらしい。
わたしはどっちも論点がずれていると考える。これは群集心理の問題ではないか?
会場のエスカレーターは、全段に二人づつ乗ると重量オーバーで故障する構造だったが、あまりにも膨大な客が集まったので、全段に二人づつ乗ってしまったそうである。
一般的に、エスカレーターに乗るときは各段の左側に詰めて乗り、お急ぎの人などのため右側は空ける、つまり一段につき一人というのが「慣例的な暗黙の了解」となっている。
だが、これは「慣例的な暗黙の了解」であって、法律や条令で明文化されて決まっていることではない。地下鉄の駅などでも、非常に込んでいるときは、エスカレーターの各段に人が二人づつ乗っている場面を見かけることはある。
東京ビッグサイトワンダーフェスティバル会場入り口を想像してみよう。自分の前に並んでいる人間は全員み〜んなエスカレーターの各段に人が二人づつ乗っている、自分の後ろにはまだずらずら人が膨大に並んで先を急げとせかしているように見える……そりゃ、一段に二人乗っちゃうのが人間心理だろ? とくに「空気の読める」日本人なら。
これはまったく悪意なく「空気を読んだ」結果だ。ここで一段に一人乗るべきだなどと言い出せば「空気が読めない」と見られたであろう。
が、なまじ空気を読んで空気に従うと、レミングの群のように揃って崖に落ちることもある、という事例である。
ことは別にワンフェスのオタク客に限りはしない。きっとどこでも起きえる話だ。

どマイナー路線担当

結局『スカイ・クロラ』も『崖の上のポニョ』もまだ観とらんくせに、惑星開発委員会の同人誌『PLANETS』Vol.5宮崎駿押井守特集に、ホンのちょこっとだけ寄稿。まあ、『紅い眼鏡』や『トーキング・ヘッド』や『立喰師列伝』を論じるんなら俺が、とは思ってましたので。
今回はちょうど本業が忙しかったし、『PLANETS』も執筆陣が増えすぎたので絞りこむというから執筆辞退のつもりだったが、結局また参加している。
毎回毎回、なんで俺なんかに寄稿のお声がかかるんだろ? まるで媒体の空気に合ってないだろ? と思っていたが、惑星開発委員会の宇野氏が『論座』五月号でのインタビュや『ゼロ年代の想像力』で述べるところによると、『PLANETS』では、わざと読者に対して「誤配」や「ノイズ」の発生を狙っているという。
そうか、半田健人が目当てで平成ライダーを観だした若い女子やクドカンのドラマのファンが、うっかり間違えて呉智英の本を読むような事態をわざと狙ってたのかw
いや〜、誌面の空気を読まなくて良いというのは楽でいいや(←たぶん誤解)