電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

最近の仕事 マニアのための歴史解説

10月末に発売された『あまちゃんモリーズ 文藝春秋×PLANETS』(isbn:4163767703)で、劇中の用語解説「アマペディア」の一部、対談記事の構成などを担当。
本書は『あまちゃん』自体の画像は一枚も使ってないし、評論中心なのではっきり「マニア向け」なんですが、発売後すぐ増刷がかかったという、凄いな。
今回はライターというより編集補助のような参加だし、大した仕事量でもないのでそう誇ることでもないのだが、『週刊文春』11月28日号を読んでたら、小林信彦も連載コラム「本音を申せば」で『あまちゃんモリーズ』に言及してた。そうかそうか、小林先生も俺の作った「天野家年譜」とかを見たかと思うとちょっと感慨深いw
小林信彦の小説は数多いが、一個人的には1960年代の戦後サブカル・TV文化草創期を舞台にした『夢の砦』(isbn:4101158185)は歴史証言的にも面白い。
当方の担当箇所の中でも、「天野家年譜」(夏ばっぱ、春子、アキのそれぞれが何歳の時、テレビ放送自体開始、東京オリンピック、「ザ・ベストテン」の放送開始、バブル崩壊、AKBのデビュー等々に直面したか)は、依頼を受けて作った物ではなく、編集会議の参考資料に勝手に作って持参した物が予想外に気に入られて使用された。
ただ、ページ構成の関係で字が小さいのが難点ですが。

みんな「学校」になってしまった。

例によって中年オヤジのド素人丸出しなバカな見解(さあ笑え!)
昨今、現実には少子化であらゆる学校の縮小が進んでいるのに、アニメやライトノベルでは「巨大な学校」という設定をやたらよく見かける(それも魔法やら超能力やらSF的ファンタジー的ガジェットが関係する特殊な学校)。『青の祓魔師』の魔法学校とか『緋弾のアリア』の軍人&スパイ養成学校とか、『禁書目録』&『超電磁砲』の学園都市とか。
そしてさらにこれも「何を今さら」すぎる話だが、日本のアニメやライトノベルなどの主人公は、大抵10代の中学高校生である。主人公が大人で実業家である『バットマン』や『アイアンマン』のような広範な年齢層向け作品は成立しにくい。
これって何なんだろう? 漠然とだが、なーんとなく気になってた。
しばし前、上記の『あまちゃんモリーズ』の編集作業の合間に、たまたま中森明夫氏と同席する機会があり、なんとなくこの話をしたらシンプルに返答された。
曰く、それは「みんな現実の学校には何もなかったから」だと。
つまり、作品の作り手も視聴者観客も、学校で何か起きて欲しかったという願望があったからではないか。
(そういや自分のリアル高校生当時のオタク友達には「中学の時は高校に入れば『うる星やつら ビューティフルドリーマー』みたいな日常があると思ってたが、そんなことはなかった」と語った者がいた。『ビューティフルドリーマー』の傍流のような『エンドレスエイト』を書いた谷川流も、『叛逆の物語』を書いた虚淵玄も、かつて同じような感慨を持ったことがあったのか?)
現実には、学校の外でなら非日常的な事件はいくらでも起こりえる。中東のシリアじゃ10代の少年少女が戦争に参加し、西アフリカのガンビアでは21世紀のご時世に魔女狩りが行なわれている(要は政府による民間信仰の弾圧)、日本国内でも、広島県では10代の少年少女が集まって生活してるうちに連合赤軍みたいなリンチ殺人が起きた。
しかし、学校の外の非日常100%ではいまいち実感から遠く面白くない、自分の体験的に実感ある日常の延長上の非日常が見たい――ということなのだろうか。
あまちゃん』は高校生活の描写は最小限で「職業物」として広範な客層をつかむヒット作になった。ただし、到底「プロちゃん」とはいえない「アマチュア」だった。考えてみれば、劇中の海女クラブやGMT合宿所も一種の学校のような雰囲気と言えるか。

無視される「普通の多数派」

少し前、某所で「なぜ、片山さつきのような東大法学部卒・元大蔵省官僚の超エリートが、2ちゃんねるまとめのハムスター速報なんぞにハマってネットで下流層の過激意見に同調するのか?」について私見を述べたら、やたら「目から鱗だ!」と驚かれた。
つまり、彼女ぐらいのエリートになると、逆説的に「自分はエリートの世界しか知らない世間知らずじゃないぞ、実は意外に下々の庶民のホンネを直に知ってるんだ、どうだ凄いだろ」とドヤ顔をしたがる場合がある。
これは従来、「大衆の原像」論を説いた吉本隆明から、女子高生やクラブキッズに取材した宮台真司まで左翼がよく陥ってた病気だった。言ってみれば、保守と左翼は民衆という子供の取り合いする夫婦みたいなものである。
だが、社会の多数を占めるまともな中流一般人は、躍起に自分の主張を述べるようなことはない。というか、むしろそれが健全で普通である。
(2011-08-31「文字化されない民心」)
http://d.hatena.ne.jp/gaikichi/20110831
その結果、エリート様がTwitterやら2ちゃんねるやらFacebookを使ってネットで手っとり早く政治的意見リサーチを試みれば「まっとうな多数の中間層(サイレント・マジョリティ)」をすっ飛ばして、「24時間365日自説を力説する極端な少数派(ノイジー・マイノリティ)」ばかりと結びついているのではないか。
現代日本人の平均では「竹島尖閣も日本の領土だ! でもこっちから戦争するほどの気はない」ぐらいがまあ多数派だろう。そして、別に24時間365日それについてばかり声高に主張もせず、一日の大部分は、目先の仕事、友人や家族との人間関係、今日の晩ごはん、昨日の野球の試合、気になるドラマの次回……なんてことを考えてるのが普通だろう。
本来、伝統とか保守は「中庸」であり、極端な復古主義もまた、伝統保守とは相性が悪い。『謎の独立国家ソマリランド』(isbn:4860112385)を読んだら、地方の氏族の長老が、アル・カイーダ系の過激派を「あんなのはイスラムではない」と毛嫌いしているという話があった。事態はどこの国も似たような物らしい。

「戦前」は天国ではない

スクールマーケット主催浅羽通明辻説法で、山本太郎天皇直訴が話題に上がった。
つまみ食い的にポイントを挙げると、大日本帝国憲法の時代も田中正造が行なったような天皇直訴は「世間の耳目を惹くパフォーマンス」でしかなかったという。
明治憲法天皇が絶対君主だったなどというのは幻想で、明治から戦前当時もまた天皇は時の権力者のお飾りであり、帝国大学法学部卒の人間の間では天皇機関説はむしろ常識、これを不敬と突き上げたのは近代法の知識などない無垢な庶民たちだった。
現代日本は腐敗・堕落していると主張するあまり戦前を天国のように理想化する人がたまにいるが、それは一部の左翼が北欧諸国を高福祉の天国のように言うのと同じ偏見だ。
しばし前、京都朝鮮学校に対する嫌がらせで学校側が勝訴した。それで「戦前ならあり得ない判決」「戦後の司法は左翼・在日に乗っ取られている」と主張する人は、大輝丸事件の裁判を知らんのだろうか?
一介の民間人が、極東ソ連軍の非道きわまる日本人虐殺への復讐を主張して私的に武装してソ連人を堂々とぶち殺したら、日本の国内法でハッキリ懲役12年の有罪になった。
当時のソ連は今の北朝鮮と同じく日本と正式な国交がなく、裁判官がソ連におもねる必要は一切なく、当時の世論には主犯・江連力一郎を愛国的人物と見なす者も多かった。それでも有罪になった。戦前でも敵国人相手なら何をやってもいいわけではなかったのだ。
逆に言えば、この判決は戦前の日本がまっとうな法治国家だったことを示している。
あと、一部の非モテは自分がモテんのは戦後の左翼フェミニズムのせいで戦前のような男尊女卑社会が破壊されたのが全部悪いと言うが、それこそ戦前なら体育会系価値観バリバリで、村の農作業や徴兵された軍隊での地味ぃ〜な行軍や労務に耐え得ないオタクでは、嫁をもらう以前に人間扱いもされんかった筈。
昔は昔で良いところも悪いところもあり、今は今で良いところも悪いところもあり、両方のいいとこ取りなど出来ない。それを望むことこそ歴史への冒涜ですよ。