電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

悪魔に尻の穴を売るのが「大人」なら、「俺が嫌だから」と答える

忘却の旋律」のモンスター(本来なら悪者)は、何の象徴なのか? は、幾らでも解釈できる。形骸化した制度、社会、世間、民主主義、功利主義、ルールetc…という建前、とにかくそれに従うことがイコール「大人」、とされるが、お前ら本気でそれを信じてねえだろ、むしろ何かごままして自分を押し殺してんだろうが? …とかいうものであろう。んが、確かにそれに従うのが「大人」で世の中の主流というのも事実ではある。皆が自ら好き好んでファシズムを受け入れ、その恩恵も得てる中、それが何が悪いと言える?
悪魔自身には力はあっても動機は無い。悪魔はその力を借りたいという人間にしか力を貸さない(ここでいう悪魔(仮)とは、まあ例えば、マルチ商法とか宗教とか大企業とか権威とか村の世間のルールとか国益と自称するものとかかな?)……こんな情況で悪魔と戦うのはやがて虚しいだけである。そんな世界観図式に立った時、わたしなら主人公にどんな動機をつけるかって、もう「俺がムカツクから」しかないよな、と思う。
悪魔の力に乗る連中は、仮に確かにそれが正しくても、結局、自分が借り物の大きな何かに便乗して「大人」ヅラをしてることを自覚してない、そしてそんな「寄らば大樹の陰」志向の付和雷同の連中を集めて、自分らこそ大人、自分らこそ力、という顔をしたがる悪魔も、自分らはそんな凡人大衆より頭一個上にいるんだ、という「優越感の快楽」にだけはこだわってる、それがムカツク、確かにお前らに従ってりゃ、世間的には「大人」として通り、利益も得られても、俺は例え貧乏したって、気安く人様に股を開いて尻の穴を…いや魂を売る気は無いから、お仲間になる気はねえぜ――とまあ、そんなヒロイズムしかないんじゃないかなあ、とか思う。