電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

愛国、愛郷、愛町…? ナショナリズムというエゴイズム

かつては、ヒーローの正義の根拠の一つは「自分の共同体を侵略者から守る」だった。
で、いきなりだが、ふと「反日」だとなぜけしからんのか? と考えてみる。一般に「自分を大事にしない人間は、結局他人も大事にしない」という類の物言いがある。自分が自分の命や身体を粗末に扱っても耐えられるからといって、他の人間にもそれを求めるのは傲慢だ、という理屈につながる。同様に、自国、自民族(国家と言わず郷土共同体でも)を大切にしない人間は、結局、世界平和と言いつつただの傲慢に行き着く(なぜかというと、リアルに考えると「平和」は国家と民族の生臭いエゴイズムの妥協調整によってしか保ち得ないから)という理屈ならば、一定の正当性はあるだろうとも思う。
何年か前、一水会鈴木邦夫氏の勉強会でゲスト講師に来た切通理作氏が、バスク人の運動家から真顔で「自分の祖国のため死ねる人間になれ」と言われてちょっと複雑な気分になり閉口したとか語っていた。バスクアイルランドの解放戦線も、遠い日本からは反帝国主義の左翼と思われてるフシもあるが、あれは彼らの国では劣勢な少数民族だから反政府の立場なわけで、むしろ強烈なナショナリスト集団である。
トロツキー自伝』を読んだら、革命後、共産政権の力で、遅れたロシアに大々的に工業や鉄道を広めようとするトロツキーに対し、アナキストの老人が「無政府の世になってなんで鉄道なんかいるものか」と突っ込んでたという記述があった。その老人にとって「世」とは自分の村だけで、他は、皇帝の治世だろうが民主政府の治世だろうが知ったこっちゃない、ということだったらしい(アナキズムと言うより老荘の隠者に近そうだ)。
では、わたしは、自分の所属する国家とまで言わんが、地域や郷土といった共同体にそこまで愛着があるかというと、恥ずかしながら、大してない。いや、自分のようなボンクラでも「生かしてもらってる」という恩義はたまには感じる。特に地元の東京都中野区には。
率直な話、無職の引きこもりに近い中年オタクのわたしが、精神的にゆき詰まって「ムシャクシャしてたから」と妙な犯罪も起こさずダラダラ生きてるのは、冗談抜きに、恐らく日本一ダメ人間に甘い中野〜杉並という環境、平日昼間からマンガ古本や怪獣フィギュアや古いアニメDVDやエロ同人誌を物色してても何も言われず、安い八百屋や肉屋の多い中野ブロードウェイのお陰と思っている(激マジ)。
もし中野ブロードウェイを丸焼きにしようという者があるなら、わたしは戦うかも知れない(笑)。だが、果たしてそれがヒロイズムと言えるか? う〜ん、ただのエゴイズムだな、多分……