電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

肉体あっての精神だろう

ガンダムの本の仕事をしている畏友中川氏と「ニュータイプ」についての話を少しした。
人類がより高次元の段階に進化、というテーマは、クラークの『幼年期の終わり』をはじめ古典SFにはよく出てくるし、ずばり『大気圏外進化論』なる本を書いたティモシー・リアリーLSDを広めた60年代ヒッピームーブメントの教祖)などのニューエイジ思潮にも多く見られるし、更に遡っていけば、ニーチェの超人思想やらキリスト教千年王国思想やらその東洋版のような仏教の弥勒信仰だとかにもつなげられるわけだが、案外うっかり見落とされがちなんじゃないかと思うのが、身体論という物理的な要素である。
現実に、宇宙飛行士が無重力の空間から地球を見ることで神秘体験のようなものを味わったという話もあるそうだが、人間の進化などというものが本当にありえるなら、頭の中で観念を構築してて高次元になれるなんて簡単なワケはなく、物理的な外部要因の方がよほど大きな契機になるだろう。オウム真理教のイニシエーションは薬物使用のインチキだったが、薬物を使用せずとも、ヨガの体術には脳内麻薬物質を分泌させる技がいろいろあり、松本智津夫はそれを薬物でより劇的にさせてただけだという説もある。
実際、近代以降、人間の体感能力はそれ以前に比べいろいろ変わっている筈で、大月隆寛氏の『無法松の影』によると、明治期に鉄道汽車が普及した当初、それまで、馬に乗ってたお侍を除けば徒歩以上の速度を体感したことのないほとんどの日本人は、汽車に乗って風景を見ると動体視力が追いつかず目を回したらしい。
我々は視覚や聴覚や触感などの五感で世界を認識してるわけで、それは当然持って生まれた身体によって限定されている、ある種の昆虫は人間とは根本から違う視覚認識力を持ち、赤外線や紫外線を関知し、蝙蝠やイルカは超音波で空間を把握する――この世には、人間には見えない色、聞こえない音がいくらでもあり、我々は限定された枠内の世界しか知らない、その枠内で何千年もかけて文明体系を構築してきた。
……このように考えた時、肉体から切り離された精神、とか、精神だけの存在になれば超越者になれる、とかいう発想が、いかに無理なものであるかがよくわかる。
ネットでは相変わらず、とにかく当事者ではなく傍観者・観察者になりたがる、眼だけ脳だけの存在になりたがる人が多いようだが、ンなもんは無理なのである(わたしも若い頃はそういう自己の肉体への嫌悪志向があったが、紆余曲折による諦めの境地で、今じゃせいぜい「このすね毛の多い脚はどうにかならんか」ぐらいに後退した)というか、そのような存在になりたいということは、そんだけ生身の身体がもたらず欲求を自己嫌悪してるってことんだろうな、『犬夜叉』に出てくる「奈落」みたいに。