電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

暮れ行く夕陽の70年代の音

畏友ばくはつ五郎氏も書いてた通り、PANTAの再発売アルバム『走れ熱いなら』のライナーを書かせていただきました。
パンタといえば70年代を代表するミュージシャン、俺なんかが引き受けても良いの? という畏れ多い仕事でしたが、敢えて当時をリアルタイムに知る世代とは違う声を、という要望に答えるべくない智恵ひねりました。当初の、知ったかぶり交じりに平岡正明竹中労の名前が出てくる原稿は没にしましたが、その内線引き屋サイトに再録するかも知れません。
で、以下もライナーに書ききれなかった、というか敢えて書き落とした話。
率直な話、わたしにとって頭脳警察や70年代PANTAソロの音は、聴いてると、当時の『太陽にほえろ』とかの刑事ドラマや特撮ヒーロー物の映像――再開発の進む造成地の空き地や町工場や放置された廃車、そんな中で顔にギラついた汗を浮かべてアクションする若者たち――そんな光景が思い浮かんで仕方ない(実際、頭脳警察でキーボード、ストリングスを担当した馬飼野康二は、後にアニメも含む多くのTV劇伴音楽に携わった)。例えば『PANTAX'S WORLD』収録のカッコいい名曲「屋根の上の猫」とか、実写版『ワイルド7』の劇中でかかってても、まったくおかしくない気がしている。
――と、以上のように考える70年代ドラマ、特撮ファンでかつPANTAファンって、音楽プロパーとはまったく別軸に、『映画秘宝』愛読者とかの中に潜在的には結構いるんじゃないかと思うんですがねえ(事実、切通理作氏も頭脳警察好きだったそうだし)。
わたしは90年の再結成時に頭脳警察を知って聴くようになったわけだが、その時は、ありきたりながら、初期アルバムの歌詞の政治的過激さとかそっちへの興味から入ったクチだった。確かに、『銃を取れ』とか『赤軍兵士の詩』(当時法政大学の図書館でブレヒトの原詩(1919年、第一次世界大戦終戦直後のバイエルン革命のドサクサの時に書かれた)を調べたら、頭脳警察ファーストの曲には含まれてないが、終わり近くに「その内天国だって来るだろう おれたち抜きの天国が」という、後から解釈すればナチスの台頭と皮肉に暗合するとも思える言葉が入っていたのが興味深い)とか、挑発的な不敵さと曲のカッコ良さの見事な融合(当時日本の新左翼とロックは見事に相性が悪かった)にはしびれたものだった。
が、今では頭脳警察で一番好きな曲は『仮面劇のヒーローを告訴せよ』収録の「間違いだらけの歌」、一番好きなアルバムは1974年のラストアルバム『悪たれ小僧』である。なんつうか、初期頭脳警察は若さの衝動の勢いが魅力だったわけだが、それが現実の学生運動の退潮を背景に、翳り行く中での焦燥と感傷となおも続く不穏な苛立ちが入り混じった感じの方が、より深みを感じるようになった、ってことだ。
70年前後の、よっしゃぁ!革命じゃあ、おりゃ行け行けぇ!!という感じは、今聴くと好みは別れるところだろうが、頭脳警察が世相から次第にずれ、パンタ自身そこに苦闘するようになって以降の音は、不思議と今なお切実なリアリティを感じる、それはなぜか……といった辺りの詳細をライナーに書いたんで、興味のある方はお読みになっていただけるとありがたいです。