電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

N君への手紙

『創』最新号に中森明夫「K君への手紙」というエッセイが載った。
「監禁首輪王子」小林泰剛への手紙という形式なわけだが、中森氏「自分も少女に首輪つけて連れ歩いた。でも僕は犯罪者にならなかった」と書いてる。ネタを明かせば、そういうシチュのロリSM写真集を企画・撮影した、という話なのだが、さて中森氏、自分と小林君の違いは何か?と語る(1989年に刊行された『Mの世代 僕らとミヤザキ君』で、宮崎勤と自分らの違いは何かと問うたのと同じやり方だ)
中森氏は、三島由紀夫を引き合いに出して、芸術家と犯罪者は紙一重、自分は欲望を芸術に昇華したが、小林君はそれをしなかった、と述べている。
――待った、ちょっと違うんじゃないか?
つまり、中森は、ミニコミを作ったり雑誌に投稿したり、マスコミ業界人となる努力をして、「少女が好き」「少女に首輪をつけてみたいなあ」を『仕事』で、表現活動にできるだけの社会的身分を作り上げた。
しかし、小林はそういう努力を一切怠り、ただ親の金で浪費蕩尽の遊びにかまけてただけ、そういうことじゃないのか?
古くはマルキ・ド・サドから、バタイユやら宮武外骨やら谷崎潤一郎やら澁澤龍彦やら寺山修司やら、第一級の芸術家と言われながら、表現活動の中身はただのヘンタイとしか思えぬ人間は数多い。ただ、彼らは皆、作品を創り、それを市場に乗せる努力をした。
中森は逆に、趣味を表現活動にするためギョーカイに潜り込んだのかも知れないが、それも誇るべき立派な努力だ、小林を批判するなら、それをもって批判すれば良いのに。
だが「努力自慢」は中森のよーなサブカル新人類には一番、自分のダンディズムに反することなのかなあ……?
噂の真相』の末期、カウンターカルチャーが緊張感を失った状況を叱る中森には逆説的に共感してただけに、残念な記事だと思うばかりである。
(余談ながら、俺個人としては、奈良の幼児殺し小林の場合は、なぜ彼は精神が歪んだか像像がつくだけに批判もしたが、「首輪王子」小林に関しては「ええーっ『イケメンのエロゲオタ』なんて、ぶっちゃけありえな〜い!!」という感じで、身分が違いすぎて理解不能、なんかもう嫉妬や憎悪さえ起きん、というか、実感持てん……)