電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

もし「みんな」が殺人を合法としたら?

だから、逆に言えば「みんな」がそれを悪だと思ってなければ、どう考えても一方的ないじめか集団虐殺のような行為が、平然とまかり通ることだって、たまにある。
南京の大虐殺とやらは中共の死者数水増しゆえに虚報説が強いが、じゃあ、関東大震災下で朝鮮人の大量虐殺はどうよ。
この時は、軍隊の一部による意図的な「ドサクサまぎれの主義者、不逞鮮人の始末」という工作もあった(大杉栄はその一環で殺された、甘粕正彦個人に殺意はなかったというが)が、庶民大衆の自発的集団行動でもあった。
「みんな」が「不逞鮮人が井戸に毒入れた。だから殺してオッケー」って言ってる、というのが、この時の群集心理の背景である。
竹中労によれば、右翼の黒龍会の方が冷静だったぐらいだそうだ。
日本人は(パニックになりゃ、日本人に限らぬかも知れぬが)そーいうこともやらかす民族性もある、ということだ。
(公正を期すため言えば、この「庶民大衆が命令されなくても自発的に動く」というモチベーションは、反面、草の根で日本の近代化を支え、日露戦争当時、沖縄の無名の漁師が軍の命令など受けずとも、自発的に全力を挙げてバルチック艦隊発見を通報しようとした、などという感動的なエピソードも生んでいるのだけれどね)
『TONE』第2号中ではわたしは、かわぐちかいじジパング』の短評も担当したが、同作品の重要なポイントは、木戸内府の台詞として、大東亜戦争を引き起こしたのは、最終的には、天皇でもなければ軍部でもなく、国民の意思だ、と語られている点だと思っている(更により正確には、日本国内の窮乏、アメリカ側の政略、その他いろいろな要素があるのだが……)。
――と書きつつ、実際の原稿では字数の都合でその点に触れられなかったものの、その記事の真下に載っている、久能五郎氏による、本宮ひろ志国が燃える』の短評が、まさにそれを補完してくれる内容になっているはずである。