電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

ブログは難しい

6月19日の日記が異常に注目されたので、すかさず補論とともに『TONE』第2号を紹介したが(一見こじつけのようだが、書いた通り、実際「日本人は戦前も戦後も隣にいる『みんな』に合わせてるだけだ」という見解は、実際この一連の特集記事の中で考えたことだ)、考えてみると引用リンクされたのは19日の日記のみで、その後書いた分は読まれてないのかも知れないと気づく。
それに引用リンクされるのは結構だが、それに対してどう思ったかが曖昧な人が多く、ここには何ら反響がこない。
とにかくどう思われたかわからんので、わたしの日記にリンクを張った見ず知らずの人物の一人に感想を求めたら、どうも脅迫のようになってしまったらしい。反省すべし。
まあ、俺も悪いのだが。
さりとて、ブログにコメントがついても、外野には「どうせ身内でうなずき合って、いい気なもんだ」と言われるようなものにしかならず、それが虚しいので、ここ数ヶ月ブログも放ったらかしていた。
(だが、ここに限らず、どこの場だって、結局は身内だけの固まりになる)
ネット上で、一対一の個人的会話に近いものを成立させるのは難しい。
ブログが普及する以前、わたしは、意見のある相手には、やたら長文のメイルを送ることがあった。また、当然「そう書いてるあんたは何様だ?」と思われるだろうと考えたので、極力公正を期そうと、じゃあ自分はどの程度の者か、悪い部分も含めやたら必要以上に自己紹介する癖があった。
しかし、それは顰蹙を買うので3年ばかり前に辞めた。
結局ネットとは、不特定多数の他人の意見をなんとなくうかがって見て、それに無難に合わせておく、という場なのだろうか。
それが、個々人が自分の中に神を持たず、「みんな」しか見てない日本人、ってことなんだがね。
(ちなみに戦前戦中は、天皇がその自分の中の唯一神として機能した面もあった……しかし、そんな自分の中の唯一神を求めるのは、一部のヤバい極右テロリストや青年将校とか、これまた市民社会からはみ出た人間であることも多かった……
そういや前にも書いたが、少なくとも80年代までは、少年院で昭和天皇の伝記ビデオを上映したら、収監者の少年たちが涙を流して更生を誓った、なんて話が実際あった)
――ところで、そもそもわたしの書いた6/19の日記自体、汎田礼氏の『永久保存版』の引用への感想なんだがね、そのこと踏まえてる人どんだけおるのか……