電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

古き良き厄介な戦前(プラス白々しい予告)

何度も繰り返し書いてきたが、今年は仕事のため、日本の戦争映画ばかり観てきた。
PHP文庫『名将ファイル 秋山好古・真之』(isbn:4569664504)はその成果の「一部」が反映されたものだが、メインの成果の方があと一週間余り後に発刊になります。お待ちください。
要するに、ある企画で「大東亜戦争シネマガイド」ともいうべき項目を担当したわけだが、字数枠の関係で、惜しくも取り上げそびれた作品は少なくない。
その一本が、渥美清主演の『拝啓天皇陛下様』(1963年/松竹)である。
実はこの作品、執筆作業中、ビデオが出てないか探したが見つからず、皮肉にも、脱稿後に図書館のビデオライブラリーで発見して鑑賞したわけだが、実に惜しい! これは、可能であればぜひ取り上げるべきだったかも知れぬ。
本作品は、題名通り、現代の目では、うっかり軍国主義礼賛一辺倒かと思われかねぬ内容である。渥美清演じる主人公の山田二等兵は、天涯孤独の無学なボンクラで、軍隊は三食飯を食わせてくれる天国みたいな場所だと語り、演習で一度見た天皇にぞっこん心酔して天皇陛下万歳を乱発する……今でこそ寅さんを日本の平和的庶民の代表のように思ってる人々は、渥美清がこんな役を演じてる事実に腰を抜かすであろうが、本作品は、寅さん以前の渥美清の最大のヒット作だったという。
坂本多加雄『スクリーンの中の戦争』(isbn:4166604252)では、この渥美演じる山田二等兵は、まっとうな市民社会から外れたアウトローであり、だからこそ、それが一人前の戦士と扱って貰える軍隊に感激して強い帰属意識を抱き、天皇への盲目的敬愛に行き着いているのだと説明されている。
以前も書いたが、わたしは『マンガ嫌韓流』には1ミリも共感しないが、こういう、かつてあった、根無し草を自覚する人間がそれゆえ持つ、帰属対象となるものへの強固な献身的忠誠心の現れとしての愛国心とかが、どうしてもムゲにはバカにできない。
つまり、渥美清の山田二等兵愛国心は、自分はまっとうな社会から落ちこぼれた人間だと自覚し、そんな自分も受け入れてくれる錦の御旗への忠誠心であって、何かを貶めて優越感に浸るための愛国心ではないのである。
歴史的に似たような例を引けば、幕末、倒れかけの幕府に最後までバカのような忠誠心を尽くしたのは、多摩の百姓上がりの新撰組だったとかいう話もこれに近い(『Zガンダム』終盤での崩壊しかけたティターンズに忠誠を尽くし続けるジェリドの姿をこれに重ねるのは誉めすぎか)
そんな渥美清二等兵も、入隊直後は当然上官の理不尽なイジメに遭うわけだが、同期に入隊した男が、そんなイジメの一環で、内地から届いた妻の手紙を朗読させられ、はじめはみな意地悪くはやし立てているのだが、手紙の内容が、東北の農村の窮乏の話、やれ隣の家の娘は女郎屋に売られた、自分はお嫁さんにしてもらって助かった、なんて内容になるや、聞く側も神妙になり、その後、やけに生真面目な若い将校から「俺のために死んでくれるか」と相談を受けたと思いきや、その若い将校は切々と農村の窮乏を語り、彼は実は皇道派青年将校の一人だった、なんて描写もあって、当時の貧乏人にとっての軍隊像というものが、実にリアルに描き出されてるといえる。
本作品では、下層民出身のアウトロー渥美に対し、同期入隊の戦友を演じる長門裕之がインテリ代表の役で登場し、両者の関係は『兵隊やくざ』での勝新太郎田村高廣の関係に似ていなくもない。
ところが、本作品が驚くべきなのは、竹宮恵子風と木の詩』末期のパリ放浪編でジルベールがただの社会不適合のお荷物になるように(って、この喩え、何人に通じるだろうか?)、渥美演じる山田のような気のいい忠節のボンクラが、戦後の平和の中では、ただの厄介なお荷物になってしまわざるを得ないことまで描ききったことであろう。
敗戦後、長門演じる元戦友と再会した渥美は、友に喜んでもらおうと思って鶏を差し出す、おいこの鶏どうしたんだよ? と聞けば、そこで徴発したんじゃ、と笑って答える――戦中は徴発と称しての物資の略奪は日常茶飯事だった――要するに戦中の感覚が抜けてないのである、左幸子の演じる長門の妻は、あからさまに迷惑顔をし、長門は渋々、この古き良き友を追い出すよりなくなる……
この映画が作られたのは、東京オリンピックを間近に控えた1963年(昭和39年)であった。汚い木造長屋に住み、戦中はバカのように天皇陛下万歳を唱えた恥ずかしい記憶は、オリンピックを前にしての急速な再開発、都市浄化の中に忘れ去られようとしていた時期である。渥美清演じる山田二等兵は、まさに、ノスタルジーの向こうに葬られた「古き良き、厄介な戦前」であったのはないだろうか。