電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

包丁にも神は宿る

兄貴は長年板前をやっており、現在は仕出し屋の管理職である。
自分も食品に関わる仕事をしているため、昨今の不二家の不祥事には手厳しかった。
 わたし「不二家があげんなった理由の一つは、規模が大きくなりすぎたからやない? ああいう大量生産になると、客の一人一人と一対一の商売やないもん」
 兄貴「いや、大量生産でも自分の仕事の品質維持にはプライドを持つのがプロちゅうもんよ」
 わたし「でも、これは不二家に限らんけど、今の労働の形ってのは、一人前の職人を育てるとかやなくで、例えばスーパーのレジ打ちでも、自分で計算しないで、バーコードを『ピッ』ってやるだけとかやん、そんな単純作業じゃ責任感も根づかんやろ」
 兄貴「仕事内容自体はバーコードを『ピッ』ってやるだけでも、職場の上司とかが『仕事はきちんとできてるか?』『何か困ったことはないか?』とかって、ちゃんと目配りしてりゃ、ああはならん筈や」
たまたま観ていたテレビに貴乃花がその夫人と一緒に出ていて、角界の入門者不足を訴えつつ、自分の相撲部屋を紹介していた。なんでも貴乃花のやってる部屋では、新米力士は住み込みではなく通いだという。(当方の聞き間違い。親方の貴乃花の方が部屋に通ってる構図だという)
兄、親方自身も含め入門者が一つ屋根の下で部屋に一緒に住まなきゃ、一人前の力士は育たんじゃないか、おおかた、本心では相撲取りなんか嫌いな嫁さんのせいだな、そもそも、自分の息子を相撲部屋に入れる気がないだろ、と憤慨する。
兄が板前見習をしていた当時、修行仲間とは、下着どころか歯ブラシまで共同で使うぐらいの環境だったが、それだけに苦楽を共にした絆は強く、当時の修行仲間には今では小倉に大きな店を構えている者もいるが、今なお兄弟当然の仲だという。
うちの兄が言うようなやり方は、今日では従業員のプライバシー侵害とでも言われるかも知れない。だが、わたしは兄の言うことは正しいと思った。こういう家族経営的な結束力が、かつての時代の日本のあらゆる産業のクオリティを支えていたのではないか。
兄は宗教には懐疑的だが、すべての物にはカミが宿る、という考え方は共感するという。
職場では、針供養ではないが、年に一度、包丁を白い布に包んで安置し、商売道具に感謝の意を示すのだそうだ。
合理性のない因習は嫌いだが伝統文化というものには敬意を払う兄は、自分自身は庶民を持って任じているが、王侯貴族文化というのは由緒があるのだから存続させるべきだと言う。
兄は白洲次郎を深く尊敬するという。なるほど、白洲は、まさに英国上流階級仕込みの紳士の流儀で欧米人にも屈することなく対等に対する一方、返す刀で、日本の成り上がりにも英国流のノーブレスオブリジェを説いた(単なる西洋かぶれとはまったく違う)。
仕事のため朝が早い兄貴が寝に行った後、テレビには、青田典子と、何やらセレブとか言われてる人が映ってたが、なんか腹が立ったので消した。