電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

それでは皆様よいお年を

もはや惰性で年1回の更新だが、逆に言えばかろうじて生存報告の機会になってるともいえる。今のネットの速度では、話題の出来事や作品に触れても、じっくり考えてるうちに世間の興味は次のネタに移り、文章にまとめてる余裕がない。自分のようなスロースタートで長文書きの年寄りには、今のSNSは向かないのだ。

■2021年最後の挨拶とか年間ベストとか
例によって本年触れたもろもろの年間ベスト。
1.TVドラマ『青天を衝け』
2.評論『星新一の思想』
3.ルポ『明治大正史世相篇』
4.映画『シン・エヴァンゲリオン劇場版』
5.映画『狼をさがして』
6.映画『TOVE』
7.漫画『高丘親王航海記』
8.映画『ゴジラVSコング』
9.漫画『国境のエミーリャ』
10.国立博物館 三輪山信仰展&イスラーム王朝とムスリムの世界
列外.村上清の弁明

■1.TVドラマ『青天を衝け』脚本:大森美香https://www.nhk.or.jp/seiten/index.html
前々から「武将ではなく、文化人が主人公の大河ドラマがあって良いんじゃないか」と思っていたなか、渋沢栄一を題材にしたのは絶妙。
本作が画期的なのは労働の物語であることだ。商品を作って売る、新しい制度を築くことの苦労と喜びがテーマ。序盤、血洗島の農村で商品作物の藍玉をつくるため、男も女も子供も交じって働いている姿こそ、日本人の原風景なのである(専業主婦? 学校? 何それ)。後半で維新後、「初めて郵便が配達された」というだけの話を、派手な戦乱より感動的エピソードに描いて見せたのが秀逸。
そして本作は、数少ない「民衆視点の幕末」の物語でもある。前半で痛烈だったのが、尾高惇忠の母が、攘夷運動に深入りして捕縛された息子らを思って半狂乱になる場面。いかに男の子が高遠な理想に熱中してるつもりでも、母親にとっては単なる息子を奪うテロ思想でしかない(この図式、その後も不平士族反乱から自由民権、226やら515、全共闘オウム真理教、Qアノンと延々くり返される)。
山田風太郎史観のように維新志士側より幕臣側に重きを置いてるので、途中まで西郷隆盛が悪役というのも新鮮。なお、劇中ではあんまり詳しく触れてないけど、岩倉具視五百円札)は、公家の中では下級の身分で、だからこそフットワークが軽かった。とはいえ、薩長志士を支持した公家らの目標は平安時代のような律令制の復活だったから(大蔵省とか兵部省とかいう組織名もその産物)、岩倉は途中から、近代的な議会制を導入しようとする伊藤博文大隈重信と敵対する立場になる。
終盤は渋沢がすっかり偉い人になってしまうので、人間ドラマ的面白さは落ちるが、そこでボンクラ息子篤二の苦悩を持ってきた構成も憎い。それこそ、戦後の高度成長期に青年期を送った世代が渋沢栄一のポジションとすれば、その子供である就職氷河期世代の多くは、王様になれないまま歳だけくってしまった元王子の篤二みたいなものではないか。

■2.評論『星新一の思想』浅羽通明https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480017383/
浅羽通明氏が星新一作品を読む会(https://twitter.com/hoshiyomizemi)を始めたのは2016年のことだが、その数年前から、話をうかがう機会があると、かつて1960~70年代に濫読した古典SFやミステリの話題を挙げることが増えた印象があった。いつぞやは「哲学も私小説もSFだよ」とも語ってたと思う。SF的想像力とは世界観を仮構する思考実験なのだ。この「SF的想像力の効用は何か?」というのが、典型的SF少年だった氏の歴年のテーマだったのではないか。
それでは、数ある日本の古典SF作家のなかでも、なぜ星新一を論じるのか? 10代前半の読書一年生に読まれてきた星は、戦後の隠れた「国民作家」であり、知的好奇心の入口としての普遍性を持っていた。ネット社会を先取りした『声の網』を筆頭に、数々の作品に見られる先見性や予言めいた内容も、「人間は未来でもこういうことをやるだろう(考えるだろう)」といった普遍的志向の産物だ。
そして「予見・冷笑・賢慮のひと」という副題が示すように、本書は冷笑系の価値相対主義が本来持っていた可能性を問うている。1980年代の価値相対主義と、文明批評的な初期SFの相性は良かった。ただ、ここで重要なのは、自分自身を相対化する視点をも持っているかだ。優越感のための価値相対主義と冷笑ではないのである。かつてソクラテスは「自分が何を知らんかを知ってる」と自分自身を相対化したではないか。
星新一は、会社経営の失敗という無力感が作家としての出発点になっている。星の私小説とも解釈できる『城のなかの人』の主人公である豊臣秀頼は、自分が環境に生かされているだけの人だと重々自覚していた。
星新一作品を読んでいれば、「人間は正義や理想より利益で行動する」「人間は自分の命が脅かされない限り独裁体制にだって順応する」という一種のニヒリズムが身につくかも知れない。だが、逆に間違っても「××党の唱える正義はくだらないがうちの陣営だけは正しい」とはならんだろう。冷笑系、価値相対主義とは本来そういうもののはずだ。

■3.ルポ『明治大正史世相篇』柳田國男https://www.amazon.co.jp/dp/4061590820
新しい仕事企画のネタになるかと考えて20年以上ぶりに再読。近代とは地方の個性を殺す画一化であり、人々の意識の変化は、首から下の生活環境の変化と連動している。
たとえば、かつて、家族と食卓を共にせず自分一人のため火を起こして食事するのは、「大袈裟に言うならば火の神信仰への反逆」とまで見なされた。輸送手段と保存技術が発達するまで、畿内の人々は生魚を食うことを野蛮と見なした(第二章 食物の個人自由)。
明治期に短期間で人力車が広まった一因は、それまで馬車がなかったから。だから人力車夫を牛馬の代わりと見なす意識も広まらなかったが、欧米人は車夫を家畜の仕事と考えて差別したという(第六章 新交通と文化輸送者)。
意外にも柳田は、「日本は離婚の多い国として知られている」と記している(第八章 恋愛技術の消長)。考えてみれば、西洋(とくにカトリック文化圏)では婚姻は教会で神への宣誓がセットなのだから、20世紀中ごろまで日本よりよほど離婚は困難だったのだ。
また、柳田に言わせると農業は「新しい職業」だった(第十章 生産と商業)。つまり、昔の農村は自給自足が基本で、農耕専業ということはなく、味噌や漬物、草鞋や蓑など何でも自作していたし、農閑期には出稼ぎに行くことも多かった。
はたまた、柳田は「女が働かないで養われているという思想は、ごく良い生活から来たのであって、普通は昔から女性が働くのは当たり前」とも書いている(第十一章 労力の配賦)。そりゃそうだ、農村じゃお母さんもお婆さんも機を織り、糸を紡ぎ、わらじを編み、商家では仕入れや売買の帳面つけをしていた。専業主婦なんて伝統でも何でもない。
柳田によると、明治期以前の日本人は整然とした行列を作らなかったらしい。「隊伍を組むようになったのは、軍隊生活の影響と思われる。学校がはやくその整理法を採用し、今では大変な人の数が、こうして街上を動くようになった。」と書いている(第十三章 伴を慕う心)。
わたしたちの考える「日本人はこういうもの」というイメージには、案外と近代150年ほどの歴史しかないものがいかに多いことか。政治や経済の大きな事件だけ語って歴史をわかった気になっていると、こういう側面を見落とす。

■4.映画『シン・エヴァンゲリオン劇場版』(https://www.evangelion.co.jp/final.html
庵野秀明岡本喜八の戦争映画の強い影響を受けてるという話は昔から有名で、『トップをねらえ』の終盤は露骨に『激動の昭和史 沖縄決戦』にそっくり、『シン・ゴジラ』は庵野版の『日本のいちばん長い日』だった。いずれも共通するのは、個としての人間を最小限にしか描かなず、大局的な運命に動かされる群像を映すマクロな視点だ。
しかし一方、岡本喜八の戦争映画といえば、『肉弾』『英霊たちの応援歌 最後の早慶戦』のような、等身大の個人、戦時下においても紡がれる日常を描いた傑作もある。庵野にそっちの影響はあんの? とずっと思っていたが、その答えが本作だったのはないか。
巨大メカと戦闘と理不尽な大人しかいない空間で生きてきたシンジやレイやアスカが、農村で田植えしたりごろごろするリハビリ過程は、ベタといえばベタだ。とはいえ、メカと戦闘の描写は天才ながら人間をどう描くか試行錯誤してきた不器用男が、40年のアニメ職人歴で獲得した等身大の実感が現れてるのかなあと思うと感慨深い。
そして本領のメカと戦闘描写は、アニメ特撮好きな男の子のハートが溢れまくってる。終盤でヴンダーVS同型艦の戦闘は、30年前の『ふしぎの海のナディア』製作時、「ノーチラス号対ブラックノーチラスをやりたかった」と語っていたのを実現させたんだろうな。してみると、主役VS同型機(しかも敵が複数)の元祖って、仮面ライダーのショッカーライダーじゃね。と、『シン・仮面ライダー』に期待を寄せる。
***
ところで、本年には一部で、旧テレビシリーズの同作中の大人はひどいパワハラ上司じゃないかという意見が盛り上がった(https://togetter.com/li/1652999)。
これを言うのは後出しジャンケンに対する後出しジャンケンだが、今になって1995年当時の人物描写を大真面目に批判するのは卑怯ではないか?
何しろ1995年放送ならば、企画、シリーズ構成、シナリオ打ち合わせ等々はその1~2年前のはず。みんな忘れてるが、1990年代(平成1桁年代)は、まだあの程度に世の中全般が体育会系価値観だった。劇中の大人の理不尽に従うシンジはおかしいと言うのは、戦時中の人間に「なんで徴兵忌避しなかったの?」とか、江戸時代の人間に「なんで農民やめないの?」と言うようなものだ。
ブラック企業」とか「パワハラ」という用語や概念、理不尽な上司には従わなくて良い、転職したり逃げても良い、という価値観がある程度以上まで世の中に共有されるようになったのはネットが普及し、終身雇用も崩れた小泉改革期以降だ。
2ちゃんねるSNSのような市井の人々同士が直接本音を言い合うメディアが定着してようやく、「うちの職場しか知らんからそれが普通だと思ってたけど、こんな待遇やっぱりおかしいと言っていいんだ」という意識が広まったのである。
エヴァ製作中の1994年当時、インターネットを使ってたのはごく一部の英語がわかる理工系高学歴のみで、世の中の仕事内容は圧倒的に、オタク的インドアワークではなく、夏でもネクタイスーツで大声を張り上げ、手で触れる商品を売るような体育会系価値観の職場のほうが多数だった。劇中のネルフ程度の理不尽パワハラは普通だった。
無論、当時の体育会系的価値観を擁護・礼讃する気はいっさいない。とはいえ、そんな当時なりに、「大人になるには嫌なことも逃げずにやらなきゃいけないのかなあ」と、必死に考えていた庵野秀明らスタッフの切実さを、後出しジャンケンで一刀両断というのは、いささか欺瞞的というものではないか。

■5.映画『狼をさがして』監督:キム・ミレ(http://eaajaf.com/
1970年代の爆弾テロリスト東アジア反日武装戦線の、その後を追ったドキュメンタリー。一部の愛国者様のお気持ちで上映中断になったというが、えんえん田舎の風景やら、未遂に終わったテロ事件の現場(天皇お召し列車が通った鉄橋)やらと、老人の思い出話が描かれるだけの映画っすよ。それを韓国人の監督が撮った点に意義がある。
劇中に出てくる北海道の森はなんの変哲もないただの森だ。だが、テロリストたちは、それの風景に「かつてはアイヌの土地だったのに、我々が奪った」という想像力を抱いた。「自分たち日本人はみな日本人というだけで侵略者だ」という強烈な日本人自身による日本否定の思想が、なぜ1970年代にしか現れなかったのか?
劇中では細かく触れてないが、かつて日本が支配・侵攻した近隣アジア諸国と日本の戦後の関係はずっとウヤムヤだった。圧倒的にアジア諸国の民衆は日本より貧しかった状況下、韓国は朴正煕、フィリピンはマルコス、インドネシアスハルトといった反共主義開発独裁で、過去の事は無視して政府トップの間では経済協力が優先された。こうしたなか、国家政府ではなくアジア各国に経済進出する民間企業を形を変えた侵略の手先と見なして敵視した点に、反日武装戦線の特殊性がある。
――ところが、近隣アジア諸国の人々やアイヌの復讐を掲げた爆弾テロは、たまたま大企業ビルの近くにいた一般人を巻き込んだだたの虐殺になってしまう。犯人の一人、大道寺将司は、被害者を救済するつもりで加害者になったことと対峙し続けた。2017年に出所した浴田由紀子の姿はほとんど「復員兵」だった。
反日武装戦線の事件から半世紀近くが過ぎて近隣アジア諸国は経済的に豊かになり、韓国は臆することなく平然と徴用工訴訟をするようになったお陰で、わたしたちはもはや罪悪感を覚えることがなくなった。だが、現在進行中の技能実習生問題は? 今、テロの標的にされるべき者は誰か?
ところで、反日武装戦線メンバーの一人で、逃亡したまま今も消息不明のままの桐島聡は、平野耕太の漫画『ドリフターズ』に「漂流者」として出てきても違和感ない。

■6.映画『TOVE』監督:ザイダ・バルリート(https://klockworx-v.com/tove/
ご存じムーミン童話の原作者トーベ・ヤンソンの伝記(https://gaikichi.hatenablog.com/entry/20141230/p2)そのまんまのお話。平板だが手堅い実録。
ヤンソンは正統な芸術家を目指しつつも、本来なら副業の童話作家として名を残したことに少なからず忸怩たる思い抱いていたらしい(富野由悠季が、正統なる映画作家ではなくロボットアニメ監督という仕事に劣等感を抱いていたのと少し似ている)。
自由を愛するけど放置されると淋しがるが、さりとて彼氏や彼女を本気で拘束する気概はない――と書くと、何やら面倒くさい人だが、芸術家は面倒くさくてなんぼである(それゆえ作品に深みがあるのなら)。
ときおりムーミンスナフキンのBLを描いてる腐女子がいるが(ムーミン受が定番だ)、史実はBLではなく百合だった。現代ならムーミンスナフキンともに女の子という設定でも商業的に成立するだろうが、当時はそれが許されない時代だったことを考えると重い。
「自由と孤独」はムーミン童話のテーマのひとつだが、自分の作品の理解者だった彼女が一箇所に落ち着かずフラフラしてばかりいるので悶々とする姿は、ムーミン谷からスナフキンがいなくなると淋しがるムーミンそのままだ。劇中でトーベ自身がムーミンは優しいのではなく臆病だと語ったのは自分のことなのか。
あと、昔の能動的な女性は酒も煙草もバンバンやるものだったのをはっきり描いてくれてるのが爽快。何かとジャズに合わせて踊るのが可愛い(これも史実通り)。
映画を観たあと講談社文庫のムーミン童話を立て続けに読み返したが、『ムーミン谷の冬』は初読だった。パパもママもスナフキンもいない中で厳冬期を過ごすムーミンは、初めて「死」を認識するが、その後の春は「再生」の象徴として描かれる。フィンランドでは一年の半分近くが雪に閉ざされ、冬至の時期は一日中暗く、人口密度も低いからご近所は頼れず、映画の中で家具を壊して薪を作っていたヤンソンのように何でも自力で作業する……こういうのが北欧人の心の原風景なんやなあと痛感。

■7.漫画『高丘親王航海記』近藤ようこhttps://www.kadokawa.co.jp/product/322005000424/
すでに癌で死期を迎えていた澁澤の死生観を反映した怪作。原作の初読時、頭に浮かんだのは諸星大次郎か水木しげるの絵柄だった。とはいえ、それではあまりに色気がない。近藤ようこが漫画版を描いていると知って、「この人がいたか!」と膝を打つ。シンプルな絵柄ながら、鳥の翼の描写、黒ベタの使い方などはじつに秀逸。

■8.映画『ゴジラVSコング』監督:アダム・ウィンガードhttps://godzilla-movie.jp/
観に行ったのが夏休み前の平日の昼間なので劇場はガラ空き。
フッ素による水道水汚染だのイルミナティの世界支配だの、Qアノンのごとき陰謀説がぽろぽろ出てくるのに苦笑する。一方でキングコングが船で輸送される途中で暴れ出したり、高圧電流を浴びてパワーアップしたり、微妙に昭和版キングコング対ゴジラを踏襲。メカゴジラはなんだか実写版トランスフォーマーに出てきそう。
さえない企業告発youtuberとただのナードが土壇場で活躍と、ツッコミ所は多数だが、怪獣映画は男の子のドリームなんだからこれで良いんだよ。

■9.漫画『国境のエミーリャ』池田邦彦(https://gekkansunday.net/work/408/
冷戦時代の東西に分断された日本を舞台にしたサスペンスアクション。何やら、過去に同じ小学館から刊行されてた浦沢直樹の『パイナップルARMY』を読み返してるような懐かしさ。この手の「架空冷戦物」は、ディックの『高い城の男』その他の架空第二次世界物と同じく、今後一つのジャンルになるのか。
共産主義支配下の日本では野球が禁じられてるという設定は、同じく冷戦下で東西に分断された日本を描いた矢作俊彦『あ・じゃ・ぱん』(https://www.amazon.co.jp/dp/4041616573)のオマージュとしか思えない。

■10.東京国立博物館三輪山信仰のみほとけ」展(https://tsumugu.yomiuri.co.jp/shorinji2020/
三輪山大神神社は日本最古の神社ともいわれる。が、実際に展示されてるのは仏道で、自然の山をそのまま御神体とする山岳信仰に「形」を与えたのが仏教だったのだなと痛感。数メートルもある巨大なお地蔵というめずらしい物が見られた。
同時期に東洋館のほうでやってた「イスラーム王朝とムスリムの世界」(https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=2109)は、アラビア文字書道が結構おもしろい。やたら金銀や宝石で装飾した剣や銃が多数展示されてたが、どう見ても実戦用ではなくステイタスとしての武具という印象。裏返して言えば、近代以前の上流階級には、戦争もまた名誉を得たり力を誇示する儀式だったことを感じさせる。

■列外.村上清の弁明(1995年執筆記事「いじめ紀行」に関しまして)
https://www.ohtabooks.com/press/2021/09/16200000.html
本年、東京オリンピック開会式に付随して広がった小山田圭吾の過去のいじめ問題は結局、実際には傍観者ポジションに近く、わざとワルぶって語った誇張や他の生徒による所業が話のメインだったとかいう(https://bunshun.jp/articles/-/48622
この件には初期から、ベタなキャンセルカルチャーとネットリンチにいやな感じを覚えつつ、さりとて小山田個人への同情の念も起きなかった。何しろ、渋谷系の王子様だった小山田なんて天上の別世界の他人様である。小山田だって東大卒の小沢健二と比較すれば平民だよと言われても、こちとら皇帝と貴族と平民の区別さえわからない底辺の奴隷身分っすから。
(だからこそ、好きでもない小山田のことを、そう明言したうえで真摯に検証したこの人の根気には頭が下がる:https://note.com/toyamakoichi/n/n01bb51913d8e
一部には小山田といじめられていた子は仲の良い友人だったという擁護意見もあった、それも事実の一側面だろう。ただ、現実のいじめはジャイアンのび太のように力関係が明確とは限らず、むしろ表面上は仲良しグループに見えつつ、その中で実質的に”いじられ役”になっていたり、いじられ役もプライドのためその事実を認めていないという場合だってある。だからこそ、教師や外部の人間にはいじめの事実がわかりにくい。
わたしが気になったのは小山田当人より、1995年当時に『Quick Japan』誌上でインタビューを行った村上清という編集者だ。何でも、この人自身が悲惨ないじめ体験者なのだそうだが、記事中では平然と「いじめはエンターテイメント」と書いてる。要するに、正面から自分の私怨を述べたり「いじめは悪い」と主張するのはダサいしウケないと過剰に思い込み、あえて、いじめる側の立場に感情移入する趣旨だったらしい。まるで「反戦平和を訴えるつもりで、『愛国戦隊大日本』を作りました」みたいな話だ。
その答えがこの弁明で、だいたいは予想通りの印象。曰く――
「近年、いじめる側の勝手な論理としてよく伝えられる「いじめてるんじゃなくて、いじってる」を想起させる描写を無配慮に掲載していたことも、恥ずべきだと思いました」
なんだよ、ちゃんとわかってるじゃねえか!
1995年当時の彼は、ミニコミ上がりの新人編集者で、それがオリーブ少女にモテモテの小山田にじっくり話を聞かせてもらったのだから、正義ぶりっこの糾弾口調はできなかったという立場は想像できる。しかし、だからこそ記事中で「今回、話を聞いてる自分も小山田さんにヘラヘラ調子を合わせてしまった。これがいじめの魔力なのだ」と率直に書くべきだったのではないか――だが、こう書くのもすべて後出しジャンケンだ。
みんな忘れてるが、2000年代以降のIT化で産業構造が圧倒的にデスクワーク中心になるまで、世の中全体が体育会系・ヤンキー系価値観で、それに染まれない奴は半人前扱いだった。当時のわたしも小山田と同じように、ワルぶらないと子供扱いされると思い込んでいた。そして、村上君と同じように、「自分が弱者の正義を説いてもダサいしウケない」と思い込み、過剰に強者に尻尾を振る態度を取ろうとしていた。だが、のちには結局、本心では愛してもいない相手に尻尾を振るのは無理だと痛いほど思い知ってやめた。
つまり、わたしも村上君の元同類なのだ(しかも、もっと能力は低い)。会ったことのない兄弟が醜い自画像を正直に見せてくれたような、イヤな感動を味わうことができた。

■回顧と展望
例によって本年やった仕事の一部を挙げとく。
『最新データでわかる 日本人・韓国人・中国人』(https://www.amazon.co.jp/dp/4569900240
10年前に当方が丸一冊執筆した旧版(累計10万部突破!)の改訂版なのだが、コロナ禍のため多くの分野で統計データは激変し、原稿を9割書き上げた状態から発売が1年延期になった。本書は断固、中韓をアゲて日本をサゲることが目的ではない。が、海外の調査機関の数字データに現れる日本の凋落は残酷だ。感染症対策で日本はアジア4位と見なされ、食の安全だって世界21位とあんまり高くない(韓国は29位、中国は35位)、スマホアプリの売上に至っては中国はわずか3年で日本の1.6倍以上に伸びた。この手の話が次々出てくるが、わざと日本の数値が低い資料ばかり探したんじゃねえぞ、本当だからな。
『日本の歴史的名建築100選』(https://www.amazon.co.jp/dp/4299019210/
今回は宝島社の名所案内本の集大成のようで、寺社やお城に加え、一般住居まで網羅。当方は和洋折衷の旧開智学校三菱財閥が築いた岩崎邸(アニメ版『うみねこのなく頃に』の宇代宮家のモデル)、アールデコ屋敷の朝香宮邸(東京都庭園美術館)等々を担当。執筆中はコロナ禍のため閉鎖していた施設が多かったのが淋しい。
『1日1話5分で身につく歴史の教養365』(https://www.amazon.co.jp/dp/4299020170/
カレンダー形式で4~6月のエピソードを担当。ワシントンが初代大統領に就任した日はヒトラーが自殺した日と同じ(4月30日)、朝廷に反逆した藤原純友が死去した579年後の同日、スペイン軍に反抗したインカ皇帝モクテスマ2世は処刑された(6月29日)……地域や時間の連続性を無視して歴史を見るのもまた一興。
『絶滅事典』(https://ddnavi.com/review/866630/a/
消えた文具、交通機関、家電品をおもに担当。きみは多面式筆入れが発売された時期、3輪トラックはいつまで生産されていたか、ワープロ専用機の最盛期はいつだったか、ジャンボジェットが衰退した理由を知っているか?
***
強いて本年の快事をひとつ挙げれば、ここ十数年オリンピックのたび唱えられてきた「感動をありがとう」というフレーズが、いよいよ地に堕ちて陳腐化したことだろうか。
努力した選手への讃辞は大いにあって然るべきだが、漫画『最強伝説 黒沢』の第一話で描かれたように、この手の感動は常に、ブラウン管の向こうにいる選手たちの感動であって、我々は観客席にいるだけで何もしてない。「感動をありがとう」という言葉には、「きみも選手と思いを共有したよね?」という一体感の押しつけの臭いがする。
――が、2021年の日本人は、皮肉にもコロナ禍によって、選手は選手、何もしてない観客は観客という「分断」(あるいは「身の丈」)をいやおうなく自覚させられてしまった。
自分は人々の一体感を全否定する気はないが、本当は分断があるのにあいまいにごまかされている状態よりは、分断が自明なほうが健全だろう。
本物の一体感とは良いことばかりでなく苦痛や恥辱も共有することだ。それこそ、選手も観客もみんな揃ってコロナに感染して等しく病苦にのたうち、それを一緒に乗り越えたのなら、真に欺瞞なく「感動をありがとう」と言うのにふさわしいのではないか。
というわけで当方もせいぜい、見苦しくのたうちながら生きのびるつもりです。
それでは皆様よいお年を。