電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

遠近法の狂った?思想マンダラ

と、いうわけで、浅羽通明新刊、ちくま新書「名著でたどる日本思想入門」シリーズ第一弾『アナーキズム』(ISBN:4480061746)(以下『ア』)&『ナショナリズム』(ISBN:4480061738)(以下『ナ』)とりあえず読了。
以下、まったく客観的公正さとかは考慮なしの偏見と主観に基づく感想文。
まず全体的印象をいえば、浅羽氏自身書いてる通り、『ア』では、大逆事件幸徳秋水秩父困民党にはほとんど触れず、『ナ』でも天皇大東亜戦争にはほとんど触れず、代わりに取り上げられるのが、それぞれ『ア』では、アナというより土着農本主義者に近い「権藤成卿」、宮田登をはじめとする宗教千年王国思想、ときて、松本零士宇宙海賊キャプテンハーロック」、一方『ナ』では、軍歌からアニメ特撮ヒーロー主題歌まで続く「日本の唱歌」に、本宮ひろ志男一匹ガキ大将」、思想として作られた思想でも何でもなく自然に芽生えた日本企業体質論の「文明としてのイエ社会」と、くるわけだから(実践的な運動系の人には反発があるかも知れぬ……まあ、実に昔からの浅羽氏の芸風らしいとは思うが)これは相当、従来的な「思想書ガイド本」のイメージからすれば変化球揃い、胴体や筋骨を抜きに手足の指や目玉や耳や金玉の裏といった各周縁パーツを忠実に語る事で躰の輪郭を語ろうというような、いささかトリッキーな試みに近い。
かつては、アナーキズムなら、圧倒的な国家権力と独占資本に、無産階級が組織や理論に頼らずいかに対するか、ナショナリズムなら、西洋列強諸国のアジア進出に、また共産主義の脅威にいかに対するか、とかいうようなことが中心テーマだったんだろうと思う。
が、この両書では、そういう政治や経済の大文字の問題は、今やかなりの部分、戦後の高度経済成長のもたらした豊かさがいつの間にやらウヤムヤに解決してしまった、という前提に立つから、今更それを大上段に論じた書物は外したってことなんだろう、多分。
実際、世の中がとりあえず平和で豊かになれば、思想なんてものは無用になる。
しからば、この両書共通のテーマは何ぞや? というと、つい先日、ヒロイズムとかエゴイズムについてとか書いたけど、こじつけめくが、まさにそれについて、つまり、一応衣食足りて後の個人倫理や正義への志向、ってことなのかな、と。
(そういや「忘却の旋律」の主人公の乗るマシンの名は、ずばり、『ア』の大正生命主義の第三章で出てきた「エラン・ヴィタル(生の跳躍)」だ)。

衣食足りて正義と理想を知る

とりあえず『ナ』第三章で、明治〜昭和、日露〜大東亜戦争で徴兵された、エリートの士官将校ならざる一般庶民出身の兵卒たちが、郷里の村々を超えた国家の大儀とか兵営体験で同胞意識を培い(この辺のわたしの過去の自論)、それが戦後、国家とか軍隊を会社や労働の現場に取り替え、そっくりそのまま高度経済成長期の情念を支えた、といった指摘(「鉄人28号」を論じたばくはつ五郎氏の説とまったく同じ!)などは、この手の思想史解説本が、とかく高学歴エリートの視点ばかりに偏重しがちな中では重要だろう。
またさりげなく、日教組的教育からの落ちこぼれの筈の暴走族が日の丸と特攻服を好む現象にも触れている(ついでにこれを昨今の「ネットウヨ」にまで繋げるのは考えすぎかな……?)
やっぱ『ア』と『ナ』は両書併せて読まれることを想定したんだろうなあ、と思う部分は多い。大杉栄は、支那革命への協力などの点で北一輝や右翼の巨頭杉田茂丸とも交流があった点、農本主義コンミューン志向など、両思想は近代的な国家や官僚制度、議会制度をすっ飛ばして、民衆の自発的意志の直接行動とかいう点で案外結びつく、という点が両書で度々出てくる。
すると、現存の国家制度と政権に反するものがとにかく「サヨ」「アカ」「反日」であるという立場に立つなら、浅羽も「サヨ」「アカ」「反日」になってしまうのかな(笑)
で、ヒロイズムという点では『ア』第二章で「黒旗水滸伝」を紹介した章では、左右を問わずテロリストに惹かれる浅羽の趣味炸裂だが、同時にギロチン社ほかのテロリスト達が日常ではいかにダメ人間だったかをしつこく強調することは忘れない。
その論調はキャプテンハーロックを論じた『ア』第九章で如実になる(ちなみにアナキズムの象徴の黒旗は海賊旗がモデルという説は実際あるそうだ。ユベール・デシャン『海賊』(白水社文庫クセジュ)という本によると、18世紀の実在海賊で元貴族のミッソンなる人物は「リベルタリア」という海賊のコミューンを作ったとか)。
地球を捨てた宇宙海賊のカッコ良さと、しかし戦闘以外の時は無敵のアルカディア号の艦内で引きこもりのおたくをやってるに都合良さの両面への指摘は、要約すっと「自由とか言うならそのリスクは覚悟しろ」ということであろう。
そう、『ONE PIECE』のキャプテン・ウソップも言ってた「毎日命はって生きてるから あいつらは本当に楽しそうに笑うんだ」と。
衣食足りて、とりあえず当面、祖国防衛の聖戦も独占資本権力に対するストライキも必要無さそうに見える現代、思想の意義って何ぞや? というと、それが「この覚悟の有無」それによって自己を律することで、別に最初の動機がエゴイズムだから悪いというわけではない、ということなのか。

「見上げる物」と「連なる物」

両書には個人的に不足を感じる部分も幾つかあるけど、まあ、趣味の域を出ないかな……。
例えば『ナ』では、高学歴左翼インテリと異質な中卒自衛隊員出身の本宮ひろ志の大衆的ナショナリズムと反米意識に触れるなら、90年頃『大と大』で、イラクに赴いた主人公の前で労働者に混じって汗水流して働くフセインを描いたことに触れて欲しかったし、志賀重昂らの風景論、象徴としての富士山について触れるなら、矢作俊彦『あ・じゃぱん』で、社会主義政権となり天皇を失った東日本共和国の架空の田中角栄が、せめて富士山が残っていればと嘆いた台詞を引けば凄くよいのに、とか。
また『ア』第四章では、権藤成卿とか日本土着の農本コミューン主義志向を取り上げるなら、大逆事件連座して処刑された在野の医師大石誠之助(最晩年の中上健次紀州の同郷出身ということもあり着目していた)や僧侶の内山愚童を挙げても良かったんじゃないかな、彼らは西欧思想を輸入したインテリでない日本オリジナルの土着反体制知識人だったわけだから……って、そもそも彼らを大きく取り上げた書物が無いのか?
あと『ア』第八章で鶴見俊介ほかの、自発的に日本人を脱した越境者、コスモポリタン関連では、金子光晴を挙げてくれたのは渋いが、スペイン内戦に参加した日本人義勇兵ジャック白井を挙げても良かったかなあ、と(白井はアナではなく共産党寄りだったが)。
と、いうのは、『ア』第八章は「脱『世間』」という視点から、単に日本を脱するだけでなく本当にどこにも属さない単独者を目指した人間をもっぱら取り上げようとしてたようだが、白井のように「四海同胞」「海の向こうの同志との連帯」という思考が根底にあった人間も多かったと思う。かつて浅羽氏自身、法政大学の講義では、日露戦争中に日本の片山潜がロシアの社会主義者と会して、戦時下の敵国人同士ながら友誼を示した例を引いて「かつては左翼にも、国家を超える国際連帯という『公』意識があった」と語ってた。
そう、まったくどこにも属さない個人などという立場から己の正義や倫理を立ち上げるのは、よほど強い意志か能力のある自立した人間以外は難しい、ってゆうか、それ以前に、ほとんどの人間は、四海同胞世界の人民と連帯、とまで言わんでも、親兄弟に地元の地縁血縁やら職場の同僚やら何らかの他者あってのもんだから、やっぱどっか、自分以外の立脚する世間なり場なりは必要になる。

日本的世間は長なき世に転じられるか?

さて、そこで『ア』と『ナ』どちらも最終的に問題になるのは、「『日本的世間』との対峙」ってことなのかなあ、と。
確かに『ア』第四章、『ナ』第二章の両面から語られるように、土着の村の相互扶助とかは、日本的世間の(数少ない)美点とも言えるだろう(民俗学用語で「村八分」とは、正確には、土着の伝統的共同体で冠婚葬祭などの十種類のムラの付き合いのうち八つから除外する、ということは逆にいえば残りの二つ(確か死人が出た時だったと思うが失念)はちゃんと付き合うってことで、それが良くも悪くも昔ながらのムラ社会の「情」だった)。
『ナ』で「イエ社会」を論じた第九章では、結局、(特に戦後の)日本人のナショナリズムの基底は、天皇制でも他民族との生存闘争でもなく、武家社会で培われた、擬似家族的な地縁血縁共同体ではないか、ということになる。
この日本型オイエ共同体世間の特徴は、西欧キリスト教文化圏の唯一絶対神と個々人との垂直な契約の理念とも、支那儒教文化圏の家父長血縁主義徹底とも違い、オイエの一員と扱われさえすれば対等な、縦より横に広がったものであることらしい。が、その「オイエ」の外を見据えず、一社、一部書の社益、部署益のみを追及したグローバルな視点の欠落に陥りがちな欠点がある。
一方『ア』の第十章では笠井潔の「国家民営化論」が取り上げられるわけだが……わたしは私的個人的には、今の日本でアナルコ・キャピタリズムには懐疑的な部分がある。
戦後の高度経済成長で資本主義が高度に発達した結果、相対的に国家権力の力は弱まった、いっそ公共事業から危機管理まで民営で自己責任にしちまえばどうだ? その方がみんなこれまでのような受動的な大衆ではなく、いやでも自立した意識に目覚めるぞ――こう言われれば、まあ納得できなくはないしスリリングだ。
(『ナ』では小泉総理の対米従属政策に批判的とも見える浅羽氏が、『ア』では小泉構造改革の自由化路線には賛同的っぽいのは興味深い)
なんでも、無政府資本主義とも訳せるアナルコ・キャピタリズムは、マルクス主義と対になって生まれ発達したヨーロッパのアナキズム(仏のプルードン、露のバクーニンクロポトキンとか)と違い、アメリカ独自の思想だという……いや、そこなんだよ! アメリカは、歴史も土着の伝統共同体もない中、自己責任の自己防衛は当然、ワシントンDCの連邦政府なんかくそくらえ、という、西部南部の武装した開拓民が作ってきた国だ。「お上」に頼らないという覚悟が違う。土着の地縁血縁か或いは「お上」に守ってもらうを当然として生きてきた馴れ合い世間の日本人にそれが真似できるのか?

うっかり「資本党」を作りかねない日本人?

日本で「インディーズ資本主義」というと、わたしが思い浮かべるトラウマ的な最悪の姿は、MLM、ネットワークビジネス、いわゆるマルチ商法である。
共産主義だから共産党、はあっても、資本主義だから資本党、は無い。そりゃそうだ、資本主義は別に「主義」ではないと柄谷行人も言ってる。市場経済はただの自然状態である。
宗教や右翼や左翼は、それぞれ「教祖、神様」とか「国家、民族、天皇」とか「革命、反権力、平等社会」とかいう、自分自身以外のものへの滅私奉公を求め、それはロマンを伴いつつも、往々にしてカルト的な狂信に転じる。が、資本主義にはそんなロマンもない代わり、滅私奉公も求めない、なぜならただ個々人の欲望任せだから……とわたしも思ってた。そしたら「資本主義バンザイ! 資本主義を謳歌しないあなたはなんてつまらないくだらない人だろう」と迫るカルトに出っくわした、それがマルチ商法だったのである!
以前も述べたが、わたしは、自立的なエゴイズム個人主義が発達したアメリカ本国のアムウェイは案外さばさばして、日本のMLMの気持悪さは日本的世間と関係あるのではないか? という説を取る。
無政府資本主義に党などナンセンス極まるが、キリスト教的な個々人の契約の観念にも乏しく「寄らば大樹の陰」と群れ、共同体に属することで安心を得たがる志向の日本人は、うっかりすると本気で「無政府資本主義党」を作ってファシズム的陶酔を求めるかも知れない……って、ギャグじゃねえぞ!激烈マジ!! 自ら孤独の滞欧生活を送った(その「覚悟」はエラいが)フランス帰りの哲学者笠井先生は、それを視野に入れてるんだろうか?
1991年の別冊宝島『巨人列伝』の大杉栄論考では、笠井潔の集合観念ユートピア陶酔を(かつて自分がそれに惹かれたからこそ)批判した浅羽氏が、それ以後とそれ以前の笠井の仕事を丹念に見直して再評価した態度は、一度批判した相手を気軽に見くびり続け一切再考しないよりは誠実だと思うが、わたし個人はこの土壇場で、実効性に疑問を覚える…。
――と、書くと、なんだか元気の出ない結論になってしまうが、小林よしのりを「カリスマ」に煽り挙げておいて、薬害エイズ運動があの末路に陥った後すかさず『脱正義論』を書いた浅羽は、そんなことはあらかじめわかって、先手を打って考えてそうな気もする、そう、衣食足りてなお思想に群れることを求めてしまう人々を束ねた「ファシズムの善用」を(笑)