電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

青春の地獄めぐりの後に

『Z GUNDAM HISTORICA』08号「ダカールの日」(講談社)発売(isbn:4063671917)。
例によって、エピソードガイドの図とキーワードコラムのほか、コラム現実認知RealizingZで、「ハマーンと混迷の時代の女性指導者」を、キャラクターガイド星々の群像で、コラム「ハーマン・カーン」などを担当。
今回の見どころは、巻末「Sign of Z 模型雑誌からつくられていったオリジナルモビルスーツ戦記」だろうか。実は、ガンプラオタではなかった俺にはようわからん(←オイ!)。だが、旧『B CLUB』に『ホビージャパン』に『モデルグラフィックス』に『電撃ホビーマガジン』と、複数誌に掲載の、知る人ぞ知るオリジナル企画を一同に横断的に扱うというのは、多分空前の記事の筈。
さて、今回は、TV版『Z』も佳境に差し掛かる手前の37〜40話を扱ってるわけだが、初期はあんなにツンツンしてたカミーユ、37話「ダカールの日」では、フォウを喪った直後なのに、むしろそれゆえにか、悟ったような穏やかな態度でシャアとアムロを助け、ベルトーチカとも和解、かと思えば、39話では、明らかに変な偽妹ロザミィを率直に優しく受け入れ家族ごっこに付き合ってやる、と、聖人君子の如き豹変ぶり(?)
――だが、これらすべて、ラストの破滅への伏線と思えば、なんとも痛ましい。
既に06号の23話エピソードガイドで、奈落一騎が、カミーユの「どこか悟ったような透明感」と、それに対する「観る者の不安」を指摘しているが、初期には自分(とそのグダグダの親子関係)のことでヒステリーを起こしてばかりいたカミーユ、この40話前後あたりから、作品世界のあらゆる不幸を一人で背負ってどうにかしようという、ほとんど破滅を避け得ない自己犠牲的な影を漂わせて行く……
さて、はじめは周囲の誰にもツンツンだった主人公が、物語なかばから、周囲の人々のためにたった一人ですべてを背負って戦う自己犠牲の士となってゆき、ラストでは、それゆえに破滅に至る物語……と、いえば、これと似てるといえば似てるように思えてならない作品がかつてあったことに気づいた。梶原一騎原作の『愛と誠』である。

奇説:梶原一騎のカミーユ・ビダン

梶原一騎ファンからも富野由悠季ファンからも石投げられそうだが、今しばらく「カミーユ≒大賀誠?」説にお付き合い頂きたい。
『愛と誠』の主人公、大賀誠は、幼児期、ブルジョワ令嬢の早乙女愛をかばって額に傷を負い、その怪我が重症となったため家庭が崩壊してグレる。不良になった大賀誠と再会した早乙女愛は、責任を持って彼を更生させようとするが、人の善意を信じない大賀は周囲の誰にもツンツンと接する(デレデレは一ミリもない)
ところが、そんな大賀は、物語終盤、財界の大物である早乙女の父や、仇敵ながら紆余曲折を経て友となった蔵王権太の父も巻き込んだ政界スキャンダルの黒幕を探って倒すのだ。
物語中盤、大賀誠が「どこか悟ったような透明感」を身につける最初の契機は、彼と早乙女愛の通う花園学園を影から仕切っていたインテリ不良少女高原早紀が、姿を消して自殺未遂の後、顔に醜い傷を負って自信喪失した姿で舞い戻り、それまで彼女にひれ伏していた人々が一転して彼女に冷たい目を向ける中、大賀がただ一人、それまでの敵対関係を忘れて優しく接しようとする場面だろうか。
ここでの大賀の心変わりの直接の動機は、自分も過去、額に醜い傷を負い、人生が一転したからだった。が、この後『愛と誠』の物語自体、それまでの敵だった高原やその忠犬、蔵王権太とは打って変わって、本気で仁義も情け容赦もない、新宿ヤングマフィア緋桜組の砂土谷俊という最大の敵の登場で、話の雰囲気自体ガラリと変わってしまう。
物語終盤、大賀誠はちっとも早乙女愛たちの前に姿を見せず、どこかで一人で動いているという展開になるわけだが、ラスト近くで明かされる、大賀の変心の最大の決定的要因は、彼が生き別れの母を見つけたことだったと語られる(その場面は、直接には描かれない)。死んだと思っていた母を見つけ、しかし再会は叶わず、もう現世的日常的な自分の幸福は諦めきる決意を固め、最後の戦いに突き進んでゆく大賀誠……
かなり無理な当てはめをすれば、物語の流れ上での「きっかけ」という意味では、同じ傷を共有した高原はフォウ、それまでの対立構図を覆した砂土谷はシロッコみたいなもんかも知れぬ(キャラの中身、その後の展開はまったく違うが)、大賀の母とのすれ違いは、『Z』終盤での唐突なロザミアとの家族ごっことその崩壊と、出来事の質としては似ていなくもない。

「いい奴ってのは、死んだ奴だけさ」

結局『愛と誠』の大賀誠は、早乙女愛やその周囲の人々を守るため、彼女の父を破滅させかけていた黒幕政治家に迫り、偶然同じ場に現れた砂土谷の凶刃に倒れる。
これは、社会的な「無用者」が、自己犠牲によって人々の命を救い死花を咲かせて散る、という、黒澤明の『七人の侍』以来のヒロイズムなわけだが、思えば梶原一騎のヒーローは、そんなんばっかである。『あしたのジョー』にしても『タイガーマスク』にしても、元々誰も信じないエゴイストの不良だった主人公が、自己犠牲の果てに一人で破滅してゆく話ばかりだ。
しかし、思えば、ファーストガンダムTV版の本来のラストもまた、アムロの自己犠牲のはずだったという。
ファーストガンダムTV版は全43話で終わったが、本来は50話ぐらいまで予定されており、その幻のシナリオの最終編は、ジオン本国サイド3への侵攻、シャアとホワイトベースの共闘、ズム・シティでのギレンとの決戦の果て、ギレンが自爆装置を起動させたため、アムロニュータイプの能力で仲間たちに危機を知らせ、自分は一人で死んでララァの許へ逝く(映像化されたラストと逆である!)というものだった。富野由悠季監督の小説版『機動戦士ガンダム』のラストもこれとおおむね似た形で、やはりラストでアムロは死ぬ。
この幻のラストには「人は分かり合える」というニュータイプの理想は、しょせん現世では実現しない、先鋭的な人間は時代の前に滅んでゆく……という、ちょっとうがった見方をすれば、センシティヴな人間特有の自己憐憫ナルシズムが漂っていなくもない(あえて言えば、この志向の悪い部分を純化させたのがオウム真理教である)
映像化された作品ではアムロは生き延びたが、『Z』のラストでカミーユが破滅するのは、このファーストガンダム幻のラストを違う形で引き継いだようにも見えなくない。
考えても見れば、当時、ヒーローたちの自己犠牲的破滅で終わる漫画やアニメやらは少なくなかった。同じ富野の『ザンボット3』はもとより、何より『さらば宇宙戦艦ヤマト』もそうだし、特撮の『宇宙鉄人キョーダイン』やら『大鉄人17』もだ。
ただ、改めて思うのは、特攻的自己犠牲の精神といえば、日本の戦前的メンタリティの代表格のようだが、『愛と誠』をはじめとする梶原一騎ヒーローの自己犠牲は、徹底して個人主義的なものであり、ファーストガンダム幻のラストもそんな感じが強いことだ。

信じるものを喪った時代

梶原一騎が生まれたのは昭和11年(1936年)終戦時は9歳のはずだ。
今年、映画『男たちの大和』記者会見で、亡き梶原と同年輩の仲代達矢は、かつての自分は典型的な軍国少年だったが、昭和20年8月15日を境に大人たちは手のひらを返したように変わった、裏切られたような、大人は信じられないという思いが刷り込まれた、という意味の事を語った。
確かに、滅私奉公的自己犠牲は戦前の日本の美徳だった。が、この国では、敗戦を機に、盲目的忠誠心はイケナイということになった。しかし「場」「共同体」「世間」への強固な結束心だけは残った……いや、元から、この国では、特定個人への忠誠心など本当にほんの一部の自ら破滅的な人間にしかなく、常に、ただ「場」「共同体」「世間」に忠実に従うだけで世の中は回っていたのかも知れぬ。
右翼的だの戦前的メンタリティと言われる梶原一騎だが、彼の作品に「場」「共同体」「世間」への協調は一ミリもない。そう、梶原ヒーローの自己犠牲は、矢吹丈伊達直人もみな「みんな」のためではなく(だから、認められること、見返りを求めない)自ら好き好んで、「己の道」のため身を投じたものである。
過去何度も繰り返し書いたことだが、戦後日本のヒーローは、昭和30年代まで、『月光仮面』も『七色仮面』も主題歌に歌われる通り「おじさん」で、でなければ『鉄人28号』の正太郎君も『鉄腕アトム』のアトムも「子供」だった。
子供の漫画やアニメのヒヒーローに、明らかな形で、成長しゆく「青年」「若者」が登場するのは、実は、右にGSアイドル、左に全共闘の1960年代末、組織や共同体などクソクラエだが、己の道ため自らを鍛える梶原一騎のスポ恨ヒーロー以後だったと言うべきだろう(一峰大二をはじめとするそれまでの「魔球」系野球漫画ヒーローと、巨人軍クソクラエな『侍ジャイアンツ』の番場蛮の違いがそれを雄弁に物語っている)。
梶原一騎ヒーローのような、こういう、もはや信じるものなき者たちの自己犠牲的破滅道、といえば『仁義なき戦い 広島死闘編』の山中をはじめ、笠原和夫脚本作品にも通じる要素だ。やはりそこには、敗戦による価値の変転、一見、戦前的右翼的メンタリティのようで、実は強固な個人主義が漂っている。
11月25日は三島由紀夫の命日なので、去年も一昨年もそのことを書いたが、戦争で「悠久の大義のために死ぬ」ことを望みながら果たせず、戦後を無気力な余生のように過ごした三島は、天皇陛下万歳を唱えて死んだ英霊を賛えろと言う一方、実は、生き延びた現実の人間昭和天皇個人には敬愛心より嫌悪感が強かったフシがある。
そんな三島は『文化防衛論』で、結局、保守すべきなのは実体としての日本文化や天皇じゃなく、移ろいながら一貫性を保持してるものだ、という意味のことを書いてるのだが、それというのは、乱暴に言えば、もう対象は現実の天皇でなくても何でもいい、とにかく自己犠牲的精神を持つことなんだ、と言ってるように読めなくもない。
――で、無理やりまとめると、70年代というのは、そういう個人主義的自己犠牲ヒロイズムが最後の花を散らしたような時代だった。80年代に入ると「みんな」が一緒に平和で豊かになって何が悪い、負け犬は自己責任、という時代になった。一見平和なようで、生存競争の残酷さが隠蔽された、もっと嫌味な時代――『Zガンダム』は、一面でそんな時代に対する反発を内包して作られた作品だった。その主人公カミーユが、かつてのような個人主義的自己犠牲ヒロイズムの失敗作に終わったのは、考えてみると必然だったのかも知れない。