電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

「いい奴ってのは、死んだ奴だけさ」

結局『愛と誠』の大賀誠は、早乙女愛やその周囲の人々を守るため、彼女の父を破滅させかけていた黒幕政治家に迫り、偶然同じ場に現れた砂土谷の凶刃に倒れる。
これは、社会的な「無用者」が、自己犠牲によって人々の命を救い死花を咲かせて散る、という、黒澤明の『七人の侍』以来のヒロイズムなわけだが、思えば梶原一騎のヒーローは、そんなんばっかである。『あしたのジョー』にしても『タイガーマスク』にしても、元々誰も信じないエゴイストの不良だった主人公が、自己犠牲の果てに一人で破滅してゆく話ばかりだ。
しかし、思えば、ファーストガンダムTV版の本来のラストもまた、アムロの自己犠牲のはずだったという。
ファーストガンダムTV版は全43話で終わったが、本来は50話ぐらいまで予定されており、その幻のシナリオの最終編は、ジオン本国サイド3への侵攻、シャアとホワイトベースの共闘、ズム・シティでのギレンとの決戦の果て、ギレンが自爆装置を起動させたため、アムロニュータイプの能力で仲間たちに危機を知らせ、自分は一人で死んでララァの許へ逝く(映像化されたラストと逆である!)というものだった。富野由悠季監督の小説版『機動戦士ガンダム』のラストもこれとおおむね似た形で、やはりラストでアムロは死ぬ。
この幻のラストには「人は分かり合える」というニュータイプの理想は、しょせん現世では実現しない、先鋭的な人間は時代の前に滅んでゆく……という、ちょっとうがった見方をすれば、センシティヴな人間特有の自己憐憫ナルシズムが漂っていなくもない(あえて言えば、この志向の悪い部分を純化させたのがオウム真理教である)
映像化された作品ではアムロは生き延びたが、『Z』のラストでカミーユが破滅するのは、このファーストガンダム幻のラストを違う形で引き継いだようにも見えなくない。
考えても見れば、当時、ヒーローたちの自己犠牲的破滅で終わる漫画やアニメやらは少なくなかった。同じ富野の『ザンボット3』はもとより、何より『さらば宇宙戦艦ヤマト』もそうだし、特撮の『宇宙鉄人キョーダイン』やら『大鉄人17』もだ。
ただ、改めて思うのは、特攻的自己犠牲の精神といえば、日本の戦前的メンタリティの代表格のようだが、『愛と誠』をはじめとする梶原一騎ヒーローの自己犠牲は、徹底して個人主義的なものであり、ファーストガンダム幻のラストもそんな感じが強いことだ。