電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

そして神話へ

gaikichi2005-12-04

PHP文庫『「世界の神々」がよくわかる本』東ゆみこ監修(isbn:4569665519)刊行。
わたしは
・Part6:エジプト神話
・Part7:クトゥルー神話
のほか「マヤ・アステカの神々」などの小コラムを少し担当。
この他、畏友・奈落一騎ほかのメンバーが、ギリシャ神話、インド神話北欧神話などを分担して、ゼウス、アポロン、オーディーン、シヴァ、ハヌマーン……といった、今日ではサブカルチャーのキャラクターとしても有名な神々を概説してます。
こういう世界の神話、伝承についての類書はけっこうありますが、世界各国のものが、文庫で一冊にわかりやすくまとまっている本というのはなかなかない点はお勧めでしょう。
内容面に関しては監修・東先生のチェックがちゃんと入ってますが、刷り上ったものを見ると、一部、本文中「○○については先にも触れたが」とか書いてながら、目次で見るとそれが先ではなく後になってたり、といったミスがありますが、これは監修者でなくわたしの責任です。ごめんなさい。
(しっかし、最近つくづく仕事の脈絡というか節操がないように見えそうだ……)

続・世界の広さはどこに生まれたかで変わる

さて、以前世界の広さはどこに生まれたかで変わると書いたが、この仕事でも、神話って、結局その土地の風土を反映した世界観なんだなあ、と(考えてみれば当たり前のことを)再確認させられた。
例えば、エジプト神話は、緑豊かなナイル流域と、その外に広がる死の大地サハラ砂漠、という明確な自然環境の差(中間地帯というものがなく、本当に風景がクッキリ変わっているらしい)にもとづく「緑の大地に住んでる選民様の俺ら」「砂漠に住む野蛮人の異民族」という華夷秩序が反映されていると言われる。
ギリシャは群島地帯だから余り強い中央集権体制が作られず、多神教となったが、ローマでは「すべての道はローマへ続く」と言われた通り、街道の整備によって、富の集積による強権をもたらし、それが反映された世界観が発展した(と、昔、橋本治氏から聞いた)。
『名将ファイル 秋山好古・真之』のために江川達也氏にインタビューした時「井伊直弼はなぜ黒船の対応に遅れたか? それは彦根藩だからなんですよ!」という興味深い説を聞いた。いわく、幕末当時、ペリー以前にも、ロシアのラスクマンやら外国船の来航は大量にあった(「外国船撃ち返し令」というものがあったぐらいである)、だから当時でも、まっとうな有識者はちゃんと対策を考えていた、が、彦根藩(近江)は内陸だから海がない、だから井伊直弼は外国船が来るということがきちんとリアルに認識できてなかった、というのである……って、一見バカらしく思えるかも知れないが、当時は現代に比べ遥かに交通網も情報網も未発達で、誰にとっても、自分の目耳で実感できる範囲が「世界」だったわけである。交通と情報によって国土が均一にならされた(かに見える)現代に生きる我々は、ついついこういうことを忘れがちだ。
ちなみに、この『「世界の神々」がよくわかる本』の担当編集者は『名将ファイル 秋山好古・真之』と同じ方で、長山靖生氏への取材行の帰りに、ふと「ラヴクラフトって、アメリカの横溝正史みたいなもんすかねえ?」という会話をした。
ラヴクラフトや、彼の直弟子たちの作品は、ラヴクラフト自身の住んだマサチューセッツ州プロヴィデンスをはじめ、実際のアメリカの田舎町の描写がリアルになされ(その筆頭が、海神タゴンの眷族が棲む架空の港町インスマスである)、その土地その土地の伝承などが取り入れられている。これって要するに、日本に置き換えたら、横溝正史に似たようなものとは言えないだろうか? 昭和初期の都会的モダニズムを代表する雑誌『新青年』の編集者で江戸川乱歩の直弟子だった横溝は、その近代的視点でもって、日本土着の地方のドロドロ世界を怪奇風味ミステリに変換し直したわけである。
日本に住む我々は、クトゥルー神話に描かれるアメリカの地方都市もうっかりオシャレな異郷と捉えかねないが、それらは、ご当地のラヴクラフトら自身にとっては、古い土着のドロドロした匂いのする、さびれ行くアメリカの田舎像だったのかも知れない。
実際、ラヴクラフト自身、大都会マンハッタンになじめず引きこもり作家として生涯を終えたことを思うと、この解釈もあながち外れではないとも思えるのだけれど。

ムカつくのは遠くの金貸しより近所のよそ者

ついでに、この「半径30メートルがその人の世界」論を先日のワイマール共和国話にこじつけて補足。
ワイマル共和国時代のドイツにアメリカ大衆文化が大量流入したことは先にも触れた。
WW1(第一次世界大戦)から1920年代、ハリウッド映画をはじめとするアメリカの大衆文化が世界に広まった背景には、伝統あるヨーロッパの娯楽産業(20世紀初頭の段階で映画の最先進国はリュミエールのフランスであった)が、大戦のため映画も音盤もそうそう作れなくなり、代わりに米国式の娯楽産業が大量輸出されたという事情がある。アメリカは文化でも戦勝国の筆頭となったわけである。
が、当時、ワイマル共和国右翼に反米ムードが漂ったという記述はほとんどない。巨額の賠償金を背負ったドイツ人の金玉は大西洋の向こうのアメリカ資本に握られていたわけだが、彼らの直接の憎しみの対象になったのは、東欧から流入してきたユダヤ人やスラブ系人種の難民たちだった。そんな海の向こうの顔も知らん連中より、目の前であふれ返ってるよそ者の方に敵意を抱くのは、人間心理としてさもありなんことだ。
翻って今の日本はどうか。
バブルは85年のプラザ合意によってアメリカに仕掛けられた物だったとか、自由化の名のもとに貧富の差を広げる小泉改革アメリカの圧力だとか言っても、そんなもんわたしにもピンとこない。それより土下座外交を要求して「日本人であるというだけで悪者」と呼ばわる中・韓の方がわかりやすくムカつく対象であるというのも、まあ、共感するかは別として、納得はできる話である。
ちなみに、WW2(第二次世界大戦)後のドイツ人は、悪い事の責任はナチスに押し付け、名より実を取ったんだろうと思う。EUの名目上の盟主はフランスでも、NATOの制式戦車は敗戦国のはずのドイツ製のレオパルド。日本はなぜこうできなかったのか……。

補足の蛇足:百合萌え腐男子宣伝大臣

そういえば先日ワイマル文化とホモソーシャルの話を書いたが、それ関連でとっておきのバカネタをひとつ。
映画好きだったナチス宣伝部長ゲッベルスは、かつて『制服の処女』を大絶賛している(これは、平井正ゲッベルス』(中公新書)に引用された、彼の1932年2月2日の日記に出てくる)。おお、ゲッベルスきゅんは隠れて『マリみて』を読むような百合萌え腐男子だったのか!?
制服の処女』というのは、当時の寄宿生女子高を舞台に、生徒たちの憧れのお姉様先生が意地悪校長らに苛められるので、生徒たちが立ち上がる、というお話である。つまりどちらかといえばサヨッキーな内容の筈である。が、ゲッベルスはこの映画に「萌え」いや多分「燃え」た。なぜか? 別に、以前「薔薇様は非民主的」と書いたように、擬似同性愛は常にドメスティックでむしろウヨッキーな耽美志向につながるとか、別にそんな意味でもない。
ヨーゼフ・パウルゲッベルスは、生まれつき片脚が不自由で、徴兵検査に落ちて(WW1の)戦場に行けなかった男である。が、そんな彼は、それゆえにか、ナチ党内で人一倍「大衆運動」の集団騒乱の昂揚に憧れたらしい(彼は当初、ナチ党内左派と呼ばれたシュトラッサーの側についていた)。ゲッベルスはこの映画を観て、清純な乙女たちが、彼女らのカリスマのため献身的に決起する有様に感動したらしい。彼が『メトロポリス』のフリッツ・ラングを口説いてナチのプロパガンダ映画を撮らせようとしたのも、クライマックスの群集暴動シーンが気に入ったからに違いあるまい。
それにしても、自分は軍隊に入ったこともなく、入っても到底勤まりそうになく、体育会系コンプレックスで、それゆえ人一倍「劣等民族」排訴の口先筆鋒ばかりは鋭かった百合萌え腐男子……そんな彼に、何やらあんまり歴史の向こうの遠い昔の赤の他人とは思えないなあ、などという苦笑を浮かべてしまうのは、わたしだけであろうか。