電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

個々には善人なのが、揃うと凶行になるから頭を抱える

戦争でもJR西日本でも「ノリの強要」で迫ってくるマルチ商法でも「俺がそれに従って欲しい」と言わず「みんなそれに従っているんだから、きみも従いたまえ」という言い方がムカつく。それが「下からのファシズム」を生み出すと書いてきた。
が、ひとつ補足しておくべきと思える重要な点がある。
それは、そのような「下からのファシズム」を作り出している人間も個々にはまったく善良な良い人間だということだ。
27日発売の『TONE』第2号上原正三インタビューでも、その点が繰り返し語られた。
島民に自決を依頼した(命令ではなく依頼だったかも知れぬが結果は同じようなものだ)日本兵も、現在の沖縄で暴行を働く米兵も、家に帰れば良い親父、良い兄貴なのだ。だが、それがそのよーな凶行を起こすのはいかなる心境ゆえか?
同じウルトラマンの脚本家ながら、本土と沖縄の友好的融和を信じようとした金城哲夫とは対照的に、所詮俺は異邦人さ、という視座でやってきて、だから本土もアメリカ軍も一切信用してないだろうか、と思われた上原氏の口から、こうした発言を聞いたというのは、得るところが大きかった。

余談傍証

話が横道に逸れるが「みんなに迷惑をかけない」問題と関連して、ずっと以前から心の片隅に引っかかっている証言がある。
数年前、少年院の教官をしていた年長の知人に聞いた話では、近年の不良(ヤンキー系ではなくチーマー系だろう)は、傷害事件など起こしても、意外にあっさり反省するという。
ただ、そこで、なぜか被害者への謝罪の言葉は出ず、決まって「お父さんやお母さんに迷惑をかけて申し訳ない」と言うのだという。
どうよ?
罪というのは、本来、加害者と被害者の一対一の関係で決まるべきはずだ。
ところが、「被害者」に対してではなく、自分の側の「みんな」に対してどうであるか、それが罪になるかの基準というわけだ。
本末転倒と言うよりないだろう。
80年代末、とってつけたように「セクハラ」という言葉が普及した。会社で上司が女子社員の尻を触る、もう昔から、幾らでもあった話だ。だが、皆、罪だなどと思ってなかった。
だが、セクハラ訴訟が普及し、それは罪だと法的に「みんな」に認められたら、罪だということになった。
そして近年では「DV」(デジタルビデオではない、ドメスティックバイオレンス)、「パワハラ」という言葉がそれに続いている。
要するに、それが善か悪かを決めるのは「みんな」ってわけだ。

もし「みんな」が殺人を合法としたら?

だから、逆に言えば「みんな」がそれを悪だと思ってなければ、どう考えても一方的ないじめか集団虐殺のような行為が、平然とまかり通ることだって、たまにある。
南京の大虐殺とやらは中共の死者数水増しゆえに虚報説が強いが、じゃあ、関東大震災下で朝鮮人の大量虐殺はどうよ。
この時は、軍隊の一部による意図的な「ドサクサまぎれの主義者、不逞鮮人の始末」という工作もあった(大杉栄はその一環で殺された、甘粕正彦個人に殺意はなかったというが)が、庶民大衆の自発的集団行動でもあった。
「みんな」が「不逞鮮人が井戸に毒入れた。だから殺してオッケー」って言ってる、というのが、この時の群集心理の背景である。
竹中労によれば、右翼の黒龍会の方が冷静だったぐらいだそうだ。
日本人は(パニックになりゃ、日本人に限らぬかも知れぬが)そーいうこともやらかす民族性もある、ということだ。
(公正を期すため言えば、この「庶民大衆が命令されなくても自発的に動く」というモチベーションは、反面、草の根で日本の近代化を支え、日露戦争当時、沖縄の無名の漁師が軍の命令など受けずとも、自発的に全力を挙げてバルチック艦隊発見を通報しようとした、などという感動的なエピソードも生んでいるのだけれどね)
『TONE』第2号中ではわたしは、かわぐちかいじジパング』の短評も担当したが、同作品の重要なポイントは、木戸内府の台詞として、大東亜戦争を引き起こしたのは、最終的には、天皇でもなければ軍部でもなく、国民の意思だ、と語られている点だと思っている(更により正確には、日本国内の窮乏、アメリカ側の政略、その他いろいろな要素があるのだが……)。
――と書きつつ、実際の原稿では字数の都合でその点に触れられなかったものの、その記事の真下に載っている、久能五郎氏による、本宮ひろ志国が燃える』の短評が、まさにそれを補完してくれる内容になっているはずである。

怪獣使いの証言

ちなみに、上記の朝鮮人虐殺のエピソードを元に作られたのが、『帰ってきたウルトラマン』で上原正三脚本の代表作「怪獣使いと少年」だ。
(まさにこの話から書名を取った切通理作怪獣使いと少年』には大いに触発された)。
『TONE』誌のインタビューでは、上原氏の手掛けたヒーロー作品の話より、上原氏の戦争体験と、沖縄問題についての見解を聞くことをメインに努めた。
(最後の方じゃ、俺の好きな作品の趣味的な話も聞いたけど)
それでも唯一、上原氏の方から振ってきた自作品の話が「怪獣使いと少年」の話だった。
畏友ばくはつ五郎こと河田氏(id:bakuhatugoro)が笠原和夫に着目する一方、わたしがなぜ上原正三氏に話を聞こうと思ったかというと、20年ばかり前、雑誌『宇宙船』のインタビューで、同氏が「沖縄から本土を見ている視点が、宇宙人の視点で地球を見ている、という感覚を描くのに役立った」と語っていたのが、強く印象に残ってたからだ。
彼は星から来たウルトラマンと同様「みんな」の外から来た人物だったのである。
上原作品では『帰ってきたウルトラマン』に限らず、『イナズマンF』でも『宇宙海賊キャプテンハーロック』でも『バトルフィーバーJ』でも『宇宙刑事シャリバン』でも、自分が生き延びるためやむを得ずであっても仲間を裏切った人間は、また、例え主人公の友人あっても一度でも私利私欲のために悪の組織の誘惑に負けた人間は、必ず罰が下って死ぬ、という話ばかりが繰り返し描かれている。
そんな脚本を書く御仁だから、俺のようなどっちつかずのコーモリ野郎には覚悟が必要かなあ、と思えば、存外に物腰がサバサバとしたお方だったので安堵したが、そのサバサバした感じは、どうやら「俺は所詮異邦人」という覚悟の産物ではないかと思われる。
というわけで、貴重なインタビューになったはずです。ご期待の程を……。