電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

普遍性とは何ぞや

ここのブログは辞書ではありません。
わたし個人が、普遍性のある言論とはどういうものだと思うかという話を書いてるという、ただの個人の意見が書かれた雑録です。

普遍性という言葉の意味を知りたくて検索でここにたどりついたかわいそうな人がたくさんいるようですが、だったら国語辞典を引くか、それも面倒なら↓の『エキサイト国語辞典』で「普遍性」と検索してください。
http://www.excite.co.jp/dictionary/japanese/

検索でここのブログがヒットしたので「騙された!」と思った方は、Googleに文句言ってください。お願いします。

「こっちが新しい=エラい」合戦は不毛か

すでにid:gryphon氏が取り上げているが、浅羽通明の個人誌ニューズレター「流行神」最新号が、東浩紀による「ゼロ年代の想像力」(by宇野常寛)評を論じている。
わたしは不勉強なもので、東浩紀の言説自体についても、「ゼロ年代の想像力」自体についても、そこで論じられているような最新サブカル作品とその批評をきちんと押さえているわけではないから、うかつなことは言えないだが、これを評しての浅羽の「サブカル批評の図式」自体については、いろいろと考えさせられた。
まず、乱暴にまとめると、東浩紀は、エヴァンゲリオン以降、90年代後半に広まった内省的メタ視点的な物語、つまり「セカイ系的」な作品を良いとする立場で、それらが、おフランス現代思想家だのの海外の学者にも認められて欲しい、と主張しているそうだ。
これに対し「ゼロ年代の想像力」を書いている宇野常寛は、(流行神で評されている論点だけを取り出していうと)、それはもう古い、00年代以降に芽生えている、デスノートのような行動する主人公を描く「決断主義的」な作品や、さらにその先の共同性を描く宮藤官九郎のTVドラマなどの台頭を指摘する立場、という対決図式になっているようである。
浅羽は、上記の図式について、東浩紀は「海外の学者=エラい・カッコいい」&「時代の最先端・新しい=エラい・カッコいい」という二つの権威主義に囚われている、と説く。
さらに、東に対して宇野を誉めるわけでもなく、この対決図式の部分は「俺の方がより最先端の、新しい(=エラい、正しい、カッコいい)ネタを押さえてるぞ」合戦でしかないとしたうえで、90年代前半、いやもっと以前の古典SFやミステリなどにも、「セカイ系的」なメタ視点の作品も、「決断主義的」な作品もある、と多数の実例をあげる(この部分はむしろ、東・宇野両人に20年先立つ古典おたくとしての浅羽の面目躍如だw)
ただし、正確を期すため付け加えておくと、わたしは「ゼロ年代の想像力」とこれを評した東の発言を全部を通してきちんと読んではいない、ここでは流行神でやり取り上げられた見方のみを単純に図式化して抜き出した。惑星開発委員会の同人誌『PLANETS vol.4』中の東浩紀×宇野常寛対談では、宇野は、東が取り上げる「90年代的」なゲーム作品などに対し、自分が取り上げる「00年代的」なクドカンのTVドラマ作品などのほうが一方的に優れているなどと言いたいのではなく、そもそも、オタク文化とTVドラマを対比させるような二元論的な意図なんかなく、東の読者はもっと広い視野を持っていろんなものに眼を向けて欲しい、だからたとえばこんな作品だってあるよ、という趣旨で取り上げてる、と述べている。
こう書くと宣伝めくが、この対談、興味ある人は流行神と併せて読んで欲しい。流行神は、浅羽通明の著作(どの本でもよい)の巻末に購読申し込み先が書いてあるはずです。

流行にうとい人間なりの言い訳

だが、この際はっきり述べておくと、わたしは惑星開発委員会の『PLANETS』に寄稿してはいるが、宇野氏とは何から何まで見解が一致して団結しているわけではない。
わたしとしては、00年代現在というのは、それこそ、テクノポップも四畳半フォークもパンクもヒップホップも同時にあり、という感じに、「あれもあり、また同時にこれもあり」という状況で、90年代的セカイ系的なものも、00年代的決断主義的なものも、さらにもっと古い時代の感性も、そもそもそんな時代性など意識すらしてない一般人の感性も同時並列的に並存していて、「新しい(=正しい・エラい)/古い(=悪・ダメ)」などという単純な二元論は成立しないのではないか、と考えている。
「新しい(=正しい・エラい)/古い(=悪・ダメ)」図式が有効だったのは、60年代、70年代、80年代…と、次々に新たな流行潮流が生み出される市場の成長期が続いていたからだろう。しかし、今や、サブカルチャー市場は成熟しきって飽和しかけているのではないか、と感じる。
末端の消費者には「エヴァンゲリオン以降のセカイ系的(90年代的)作品」と「デスノートなどの決断主義的(00年代的)作品」を、両方同時に楽しんで消費していて、そのことにたいして矛盾意識を抱いていないという人だって多数いてもおかしくはないだろう。
しかし、それこそメタ批評的に(w)自分で自分にツッコミを入れると、こういう考え方は、最新物を追うことにかけては不勉強な人間には都合良い。
はっきりいって、わたしは最新物のサブカルチャーには不勉強だ。ピンポイントでたまたま目について気に入ったようなものしか追っていない。まあそこは、最先端を論じるのが担当の人と、そうでない人と、人によって役割分担の違いがある、ということで、優劣つけなくてよいと思っている(そう考えると自分が楽なので……)

思想は自己正当化の万能薬じゃねえぞ!

なお、べつに東浩紀個人を貶めることが趣旨ではないが、「東浩紀が陥っている図式」についてはわたしも一言したい。
東浩紀は、90年代後半以降の「セカイ系的」なライトノベルエロゲーを難しい思想用語でいろいろ誉めているようだ。まあ、それをいえば、ニーチェは『悲劇の誕生』で当時最新のミュージシャンであるヴァーグナーを論文の題材に扱ったが、当時の世間の評価では、いってみれば、モー娘。で大真面目な論文を書くようなものだったらしいし。
しかし、これは東当人の意図したことではないかも知れないが、結果的に、東の論が、それを読む一部の怠惰な人間に「だから、とにかく自分たちの好きなエロゲーは時代の最先端、カッコいい、エラい(→ほかのことには興味持たなくて良いし、そればっかり論じている自分は何様かなんて考えなくてよい)」という、都合よい自己肯定の権威のお墨付き承認装置として機能しているという側面はあるのではないか?
たとえば、ロラン・バルトは、記号論を説明するのにプロレスを持ち出したが、だからといって「プロレスが時代の最先端。プロレスファンはプロレス以外のものに興味持たなくてもよい」などということは言ってないのであるw
この点に関してだけ言えば、東と同年生まれの山野車輪(と、その周辺の宝島・サンケイ系保守サブカル文化人)が、今の嫌韓厨に対して「だから、とにかく韓国・在日は悪い(→ほかのことには興味持たなくて良いし、そればっかり論じている自分は何様かなんて考えなくてよい、自分たちは日本人というだけで(何の努力もしなくても!)無条件に偉い)」という、都合よい自己肯定の権威のお墨付き承認装置として機能しているという構造と、図式自体はまるで変わらないだろう。
(話が横道にそれるが、最近の中国産有毒ギョーザをめぐる報道で、週刊新潮は中国側の毒物テロ説まで持ち出す中国叩き姿勢だが、週刊文春は、中国批判もしているが、同時に、青沼陽一郎氏らが、こんな輸入食品に頼らなければならない日本の食料自給率低下の問題を見直せと説いている。卓見だ。でも売れるのは週刊新潮の方なのだろう)
こういう都合のよい自己肯定の道具にできる言説は、それゆえウケが良く、売れる。
余談ながら、わたしはそういうことを一切言わないので、人気がないw
が、別にウケて人気者になるのが人生の目的でものを考えているわけではないから別に良い(←負け惜しみ)。
90年代の一時期、小林よしのりも、宮台真司も「冷戦体制崩壊でそれまでの戦後の思想が全部役立たずになった今、これが時代の最先端だから、これさえ押さえてれば他を学ぶ必要はない」という便利な万能回答として消費された側面がある。だが、世の中そんな簡単にはすむものではない。
わたしより5歳ほど年長の、つまり80年代ニューアカブームで浅田彰などを愛読したであろう世代のライターで、文学批評でもJ-POP批評でも、何の原稿を書いてもすべて必ずポスト構造主義の述語ばかりが並んでる、という人がいた。彼にとっては、何十年経っても永遠にそれが最先端の万能回答で、かつカッコいいものなのだろう。
ニューアカ現代思想の文芸批評家が誉めるメタフィクションだのアンチロマンだの脱構築だのだけつまみ食い的に齧って、その図式に当てはまらない昔から変わらずにある定番や、そもそもそんな難しいこと考えないふつーの人の感性とかを視野に入れないのは、たとえて言うと、フォアグラだのトリュフだのの極端な珍味だけ食べててご飯を食べない人のようなものだ。そりゃ栄養が偏って変な人になるよ)
なんでも、200年ほど前には、ヘーゲル哲学というものがその位置にあったらしい。要するに「ヘーゲルさえ読んでりゃ俺は最先端。もう他は何も学ばなくて良い」などと。そんな虫の良い話があるか、ってのw

普遍は不変か?

では、そうやってエラそうに東浩紀の陥っている図式(東浩紀個人のことではありませんよ。念のため)にツッコミ入れてるお前自身(骸吉)は、どういう視点でもの考えてんだよ? というツッコミに対しては、とりあえず以下のように答えたい。
セカイ系ライトノベルクドカンのTVドラマも良いけど、ちょっと視点変えて、ドストエフスキーでも読んだら? とw
つまり、古典にも目を向けるということだ。最新流行ネタは変わっても、古来からあるトラディショナルな構造・図式は維持される場合もある。
ただしまったく同じとは限らない、ここが違う、それが時代や地域の特異性、ではその特異性の原因は何か? と考えることだ。
それこそわたしは、嫌韓厨とナチス支持者の相似点と相違点とか安倍晋三とナポレオン三世とか、惑星開発委員会の大槻ゲンヂ『新興宗教オモイデ教』座談会とか、「○○の図式は××と似ている」式の構造当てはめ思考ばかりやっている。
PHP文庫『世界の神々』シリーズでも「○○神話の××」は「△△神話の□□」と構造が同じ、普遍のパターンなのだろう、なんて話ばかりやってる)
ゆっとくが「俺はこんな古典を知ってるぞ自慢」がしたいわけではない。「ああ、この最新の××は古典の○○と似てますね。並べて読むとより楽しめたり、そのことで見出せることがあって面白いかもしれません」という話がしたいのだ。
ドストエフスキーはなぜ日本人に人気があったのか? これは一考の価値がある。これについては昔から諸説あるだろうが、自分なりの仮説としてこんな考え方ができる。
比較の例としてはおかしいかも知れないが、たとえば、フローベールの『ボヴァリー夫人』という小説がある、これは、第二帝政期のフランスのある片田舎のある医者の奥さんの生活を非常にリアルに描いた小説だ。
ボヴァリー夫人』はすぐれた文学作品だが、一般の日本人多数にはとっつきにくいと思う。なぜかというと、特定のある国のある階層のあるローカリティという個別具体に迫りすぎて、そんなもん知らない日本人には、わが身を重ねて理解することが難しい。
この点、ドストエフスキー作品というのは、『罪と罰』だろうが『カラマーゾフの兄弟』だろうが『悪霊』だろうが、とにかくバカみたいに登場人物が多く、しかもそれが、貴族に貧乏学生に官吏に逃亡奴隷に革命家に娼婦に聖職者etcetc…と、やたら多様だ。
極端な言い方をすると、ドストエフスキー作品は、そのことによって、ただ19世紀ロシアのローカルな場面を切り取った作品ではなく、それこそ一個の「世界」が再現されているといえないか? そして、個別具体的過ぎるローカリティは無関係な土地の人間には感情移入が難しくても、金持ちと貧乏人の関係、父と子の世代対立、とかいった「図式」自体は、国や時代を超えて感情移入しやすい、だから、ドストエフスキー作品は日本で愛読されたのではないだろうか?
加えて、19世紀のロシアは同時期の日本と同様、貧富の差も土着的人間と近代的人間の落差も大きい国だった。
近年、松本清張作品のドラマ化が再ブームになった。80年代後半〜90年代前半に流行した、いわゆる「トレンディドラマ」は、その当時のローカルな階層と時代性にしか応じていないが、多様な階層とローカリティのある登場人物を描いた松本清張作品のドラマは、それゆえ、単なる昭和懐古ネタという意味を超えた普遍性があるのではないか?
(ついでに与太話をすれば、昔からオタクに支持された漫画、アニメ、ゲームは多数あるが、その中でガンダムが群を抜いた位置にあるのは、多様な階層とローカリティのある登場人物を描いて一個の世界を再現することに長けていたからなのかも知れない)
現代の問題を考えるのに、現代だけ見ていても、いずれ蛸が自分の足を食い尽くすように頭打ちになる。今は格差社会化と呼ばれるが、昔の方がもっとずっと貧富の差も広く、ゆえに人間類型の幅も広かった側面だってある。それに眼を向けることで、現代のものだけ追っていても気づけない視野が開けることだってあるかも知れない。
わたしは流行とか関係なく、過去のものから、そういう、現在にも当てはめて考えるヒントに使える図式、構造を見出すことにこだわっている。
実際、どうもそれが、歴年の畏友にも認められている唯一の才能でもあるようなので。

「大きな物語」は必要悪か?

論座』の3月号では東浩紀天皇制について語っているが、どうも東先生は、とにかく男性原理的な主体を滅却する方向の思考が無条件に正しい、とにかく国家とか宗教とかいった、共同体を支える、いわゆる「大きな物語」は解体の方向に進むのが正しい、と思いたがっているように読める。
だったら、この際はっきり言うが、わたしは「大きな物語」復活論者の側だ。
(補足1:ここでいう「大きな物語」とは天皇制だけを指さない。たとえば「高度経済成長」も、「人民戦線」も、「大きな物語」として機能しえるし、それが、ばらばらの個々人に理想や目標を与えて連帯させ主体性を獲得して躍動する魅力的な装置として機能するのなら、肯定したい)
大きな物語」解体を肯定する志向の人は、そういう人々と束ねる権威的な国家権力や宗教的伝統や思想的目標などがなくなって、個々人が自分の欲求のまま自由に振る舞えば世の中は自然によくなる、と思いたがっている、つまり、民意性善説にもとづく自由放任を正しいと思っているようだが、大変残念なことだけれど、わたしはどうしてもそれが正しいと思えないのだ。
民意性善説にもとづく自由放任を唱えて失敗したのが90年代の宮台真司だった。宮台は、欲求に自由で軽々と人とコミュニケートするコギャルやクラブキッズの生き方を礼賛し、これを放置すればひとりでに自己決定自己責任が普及すると説いたが、そうはならなかった。宮台は裏切られたわけではない、宮台が勝手にコギャルやクラブキッズに自分の理想や願望を当てはめすぎただけだ。それこそ性善説的に。
わたしは、たとえば、天皇制がなくなったら、今の口さがない嫌韓反中の差別主義者はもっとひどくなると思う。従来の日本の右翼は、あくまで建前としてであれ、忠君愛国といっしょに日本的な義理人情を説いていた。しかし、欧米の右翼であるネオナチやスキンヘッズには口さがない人種差別こそあれ、義理人情は感じられない。それはなぜか? 日本の右翼は、建前としてであれ、血の通った生きた人間の天皇を奉じているからではないか? 人の良さそうな顔のお父さんの前では悪いことできない、という心理だ。
(補足2:ただし自分は、たとえば天皇制を奉じればみな善良になるなどと言いたいわけでもない。典型的天皇バカである『拝啓天皇陛下様』の山田二等兵は大陸では蛮行もやったであろうし、ドストエフスキーキリスト教人間愛という「大きな物語」を説いたが、そのキリスト教徒も十字軍じゃ随分殺した。この手のことは、あらゆる「大きな物語」につきまとう)
時代の最先端をゆくカッコいい現代思想家であれば、こういう考え方を、前時代的な反動主義と思い切り軽蔑してくれるかも知れないが、いや、古いとか新しいとかじゃないよ、いつの時代も変わらないトラディッショナルだよ、と言いたいw
古いとか新しいとかじゃないよ、いつの時代も変わらないトラディッショナルというものはあると思う。宇野氏はまず90年代的セカイ系に対する00年代的決断主義、という論点で天元突破グレンラガンを高く評価したが、わたしもこの作品は気に入ったけど、いや、これは90年代も00年代も関係なく、いつの時代も通用しえる少年冒険成長物の王道だろ、と思う。
そりゃ確かに、国家権力や伝統宗教文化や思想的目標のような「大きな物語」には弊害も付きまとう。そういうものが独裁や弾圧を生むんだ、とか。しかしだ、逆に言えば、それがあるから、それに対する個人主義もまた、その覚悟が明確になり、輝くのではないか?
戦後を通しての権威の解体と平坦化が進んだ現在は、かつての金権で越え太った大物保守政治家だの、公害を垂れ流す財閥のようなわかりやすい巨悪がなくなった代わりに、自由を主張する若者のほうも、なんだか気合の入らないダラダラとした印象しかない。
もし「大きな物語」のほうが嫌な意味で支配的になったら、今度は革命家に鞍替えするまでのことだw
大きな物語」に殉じた山田二等兵と、「大きな物語」に立ち向かったジャック白井は、どちらもバカだが、それゆえに輝かしい、とわたしは思っている。