電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

球児の墓にユニフォームで参拝するのは異常か?

ここしばらく仕事が詰まっていたので今さらになったが、映画『靖国 YASUKUNI』を観に行ってきた感想。
まず冒頭、軍服を着て靖国神社に参拝し、金切り声を上げる老いた元軍人の一群が登場する。本作品ではこの手の実録映像が結構あり、「街宣右翼愛国者のイメージ悪化を狙った反日勢力の自作自演」という説を信じたがっているような手合いは、こういう実録映像が流されることを侮辱的に受け止め、逆に、そういうネトウヨを嘲笑する人間は、コスプレ右翼の珍妙さがよく描かれていると喜ぶようである。
しかし、これが愛国者を愚弄する映像であるかは、解釈と想像力の持ち方次第だろう。
わたしは、モナーギコ猫の描かれたTシャツを着て靖国神社に参拝する若人はイタい奴にしか見えないが、本物の元軍人が軍服を着て元戦友の墓に参ったりそこで軍隊ラッパを吹き鳴らすことがとくに異常な行為とは思えない。たとえばの話、元高校球児の墓に、元チームメイトがユニフォームを着て参拝すれば、墓の下の人間は懐かしがってくれるだろう、と思うのは人情であろう。
(無論、一方で、靖国神社に合祀された戦死者の中にも、たとえば、映画『軍旗はためく下に』の冨樫軍曹や、『ゆきゆきて神軍』の奥崎謙三の戦友のように、軍隊には恨みしか残していない元兵士というのも確実に一定数存在するはずだろうけれど)
ちょっと迂遠な話をする。
戦没者慰霊施設設の類はどこの国にもある。中国や、旧共産圏の国々にも当然ある。
靖国神社はじつはちっとも伝統的でもなんでもなく、近代国家の産物である点はよく指摘される。日本は、後発帝国主義国で、近代まで対外戦争というものをほとんど経験したことがなかったので、明治になってから急遽靖国神社というものを作った。
要するにこれは、明治維新革命烈士慰霊廟なのである。そう考えるとなおのこと、外国の戦没者慰霊施設と比較しても、靖国神社の性格は、宗教施設というより、共産中国のような革命政権の霊廟に近いだろう。これは別に皮肉でも嫌味でもない。
ところで、共産中国はかつて朝鮮戦争というものに参戦したことがある。
現在では、朝鮮戦争とは、北朝鮮の独裁者金日成が勝手にやらかしたくだらない戦争、ということになっているが、当時の中国では、これを本気で、朝鮮半島に介入したアメリカに対する祖国防衛のための戦争と認識し、多くの将兵が(当時の中共の、自軍の兵士に対してさえ人命尊重精神などカケラもないデタラメな戦術のため)戦死した。
朝鮮戦争では毛沢東の息子も戦場に出て戦死している。毛沢東中共国民にあれだけの災禍をもたらしておきながら、中国の田舎の農村や人民解放軍の一部ではいまだに尊敬される理由のひとつもこのためだ。
で、かような朝鮮戦争戦没者も祀られた中共の戦没慰霊施設に、戦没者の元戦友だった老人が、文革時代で思考が止まったような人民服姿に毛沢東バッヂまみれの姿で参拝しても、自分はこれを嘲笑はしたくはない。きっと当人は真剣だろう。靖国神社に軍服姿で参拝する元軍人の老人と同じように。

真剣な人間は、おかしくて、哀しい

また、映画『靖国 YASUKUNI』の終盤では、戦前戦中の記録映像として、当時の軍人による、軍刀を使った訓練、軍刀を使った捕虜処刑の映像などがいくつか出てくる。
これに対しても「こういう映像は、日本の旧軍人をことさらにファナティックで野蛮な存在に見せようと強調している」と受け取って不快感を覚える、という人がいるのであれば、そのような考え方こそ、戦後の平和主義に毒された視点だろう。
あの記録映像の被写体となっている昔の日本軍人自身、つまり靖国の中にいる英霊は、ああいうのが一切おかしくなくて正しい、という価値観のもとで生きていた筈なのだから。
こういう映像に不快感を示すという人間は、戦前戦中の日本軍人は一切誰も殺さなかったとでも思いたがっているのだろうか? 靖国は軍人の墓だぞ、軍人の仕事は何だ?
こうした「英霊」の姿の一方、映画『靖国 YASUKUNI』には、「私の父や祖父は自ら望んで日本の軍人になんかなったのではない」という立場を唱え、靖国合祀の取り下げを望む台湾人元日本兵の遺族や徴兵されて戦死した元僧侶の遺族なども登場している。こうした立場の人間は、確かに、可哀想な少数者であると沈痛に同情する。
だが、この映画では、こういう少数者でもなく、はたまた金切り声を上げる見るからに奇異な右翼のようなファナティックな愛国者でもなく、たとえば『九段の母』(神社とお寺の参拝方法の違いさえわからないというド田舎者の母が、それでも、息子が祀られてるからと靖国に参拝する風景を歌った唄)で歌われているような「まったく普通の戦没者遺族」が欠落している印象が拭えない。
実際がところ、そういう「まったく普通の戦没者遺族」こそ、靖国神社に関する問題の本来の最大の当事者のはずではないのか?
しかし、そういう人間の多くはわざわざ自分の意見など言わないので、そういう人間が描かれない(描きようない)というのも仕方ないのであるが。
劇中で取り上げられている、靖国軍刀を奉納していた刀匠の爺さんは、別に善人でも悪人でもなく、ただの、昔はよくいた、自分の職分以上の難しいことは考えず、喋るのが下手な職人気質ではないかと思われる。こういう人間がカメラの前でうまく喋れない姿を晒すのはいじめに近い印象があり、この部分は、いささか見ていて辛かった。
が、今の日本人だと、なまじ「空気を読」んでしまうがゆえ、こういう「イタい図」は撮らない(撮れない)はずで、恐らく、そういうものをイタがって編集せず映してしまった点が、良くも悪くも、外国人の映画監督の手になるがゆえなのだろう。

幽霊の正体が枯れ尾花であっても

ところで、本作品を上映中止に追い込んだかも知れない圧力の正体とは、いったい何だったのであろうか。
映画『靖国 YASUKUNI』の上映に関する問題でも、その少し前から話題になった日教組の教研集会場の問題でも、劇場なり、集会場のホテルなりは「右翼の抗議」をその理由にしているのだが、もし本当に右翼が暴力的妨害に出れば、正当な被害者として正々堂々と法的に訴えれば良いのだし、正当な被害に対しては正当な損害賠償請求が成立するはずだ。
だが、劇場なり、集会場のホテルなりが本当に憂慮したのは、右翼団体の暴力的な抗議それ自体より、そのことによって、映画の観客とか、近隣の住民とか、善良な一般人第三者ということになっている人間に危害が及んだ場合、自分がその責任を問われるということではないのか?
要するに、劇場なり、集会場のホテルなりは、右翼の暴力に屈したのではない、「安全」「無難」を絶対とする市民社会の価値観に屈したのではないか? ということだ。
――断っておくが、これは一切、右翼団体を擁護する意図ではない。
当然、本当に右翼が暴力的妨害に出れば、悪いのは右翼だ。だが、先にも述べたとおり、その場合は、正当なる被害者として正々堂々と法的に訴えることができる。
だが、映画の観客とか、近隣の住民が巻き込まれた場合「善良な一般人第三者を危険に晒すなんて」と世間のひんしゅくを買う。常識的に「空気の読める」日本人なら、こういうトラブルは一切未然に避けてやり過ごそうと思うだろう、右翼に言い訳を押しつけて。
こんなへそ曲がりな意見をあえて書いたのは、別に奇をてらいたいのではない。
言論の自由」とか「言論への弾圧」とかいう論議になると、どうにも皆、すぐ簡単に古典的でステレオタイプな思考に陥ってしまっていないか? と感じるからだ。つまり、どこかに悪い言論弾圧ファシストがいて言論を弾圧するのだ、という単純な発想に。
かつて1988年、当時の昭和天皇が危篤状態に陥り、さらに死去したとき、多くのTV局が娯楽番組を「自粛」したが、これはどうあっても「自粛」である。総理府宮内庁も「娯楽番組をやめろ」という明示的な命令は出していない。TV局が「空気を読んだ」結果だ(このときも娯楽番組をやったら、右翼が抗議に「来るかも知れない」、と右翼が言い訳に援用された)。

真の言論弾圧の形はそんな単純なものではない

深夜アニメの『図書館戦争』を観ると、有害図書を葬るため軍隊が日常的に出動するとかいう世界観を描いている。たぶん、この作品は別に思考実験的なSFとかではなくアクション物を目指しているのだろうが、なんという古典的な管理社会イメージであろうか(まあ、これで『華氏四五一度』を初めて知って読む若い人とか現れてくれれば、それ自体は結構だとは思うけれど)。
世のオタな若者の右傾化とやらが唱えられる中、なぜこんな作品がベストセラーなのか不思議だが、まあ、昔から「自分は世の少数派である」という自意識が強い人間には、自分を弾圧される側に置く話に自己憐憫自己陶酔するのが好きな傾向があるからだろうか。
かつてはそういうオタな若者が想定する、自分を弾圧者する者のイメージといえば国家権力側だったが、右傾化しているとかいわれる今の若いオタな若者では、なぜかそれが在日や同和などの「反日」勢力にすり替わっただけで、心性自体は同じなのかも知れない。
いずれにせよ「『弾圧される可哀想なボク』という物語が好き」という点では、どっちも自虐好きのマゾヒストじゃないの? と思うのだが。
しかし、世の中そんな、誰が弾圧者か簡単にわかる言論弾圧ばかりだったら苦労はしない。
本当に巧妙な言論統制とは、言論統制が行なわれているという事実にさえ気づかれないようにやるものだ。
オーウェルの『1984年』では、国民を絶え間なく監視するシステムとともに「新語法(ニュースピーク)」により、世のあらゆる出版物から、反国家的な思想に結びつきそうな文言だけが随時こっそりと削除され、反国家的な思考発想がふと自然に芽生えることさえ一切ありえないように情報操作されている。目立たぬように、しかし確実に。
具体的に言うと、『1984年』のイングソック国(←ここ正確には「オセアニア国」、INGSOC(イングソック)は作中の英国を独裁支配している党組織)の辞書の「自由」という項目には、荷物から手を離したら手が自由になるとかいった物理的、物体的な自由という意味しか載ってない。精神的な自由、政治的な自由、という概念自体が一切ないことにされている。こういう環境で子供が育ち、さらにその子供、孫の世代になれば、精神的な自由、政治的な自由、というものを思いつくことさえできない人間が多数になる、というわけだ。

考える自由の能力なくば言論の自由は持ち腐れだ

それに、『1984年』のイングソック国オセアニア国や北朝鮮のような独裁国ならいざ知らず、日本のようなタテマエ上「自由」な国では、世の中は別に、権力者だけの意志でも回っていない。
先の、映画『靖国 YASUKUNI』を渋った劇場や、日教組に教研集会の会場を貸すことを渋ったホテルは、右翼に屈したというより、映画の観客とか、近隣の住民とか、善良な一般人第三者ということになっている人間に危害が及んだらひんしゅくを買うことを恐れたのではないか、という問題もそうだが、わかりやすい弾圧者ばかりでなく、世間の空気というものも時として大きな圧力になる。
が、たいていの左翼は「悪いのはいつも国家権力」「民衆は弱者で正義」という大衆性善説を信じたがっているから、民衆の自発的意志というものが必ずしも善意ばかりでないことを平気で見落とす。
2004年の春に起きた、イラク人質事件(通称「三馬鹿」事件)のときが良い例だ。
自作自演説&自己責任論による人質バッシングは、どうあっても、良くも悪くも、インターネットを中心とした大衆的な世論の自発的な声として現れた。が、阿呆な左翼には、これを必死に首相官邸による仕掛けだと信じたがっていた連中も少なくなかった。
「悪いのはいつも国家権力」「民衆は弱者で正義」だったら、もしも次に関東大震災が再び発生したとき、庶民大衆の自発的な反応で朝鮮人虐殺が起きたらどうすんだよ?
竹中労によれば、現実の大正の大震災では、なんと内田良平ら職業右翼のほうが「『朝鮮人が井戸に毒を入れた』などというのはデマだ。落ち着け」と説いて回ったそうだぞ。
――どうも今日は、あたかも右翼を利するようなことを書いているように誤解されそうだが、別にそういうことが言いたいのではない。
映画『靖国 YASUKUNI』を反日プロパガンダ映像と受け取るのも、愛国者の堂々たる姿を描いた映像と受け取るのも、観る人間の解釈と想像力ひとつだ。
もし実際に言論弾圧なり検閲なりで限定されたプロパガンダ情報しか与えられない状況にあっても、それでもなお自分なりの判断ができる、という精神の自由こそが、単純即物的な自由よりも重要な点ではないか。
「国家権力の言うことだからケシカラン」とか「サヨクだからケシカラン」という単純な二元論図式は、場合によっては、せっかくのその想像力の自由をみずから曇らせて、限定された情報に接してもなお、ちゃんと見ようと思えば見えるものものさえも見えなくしてしまうかも知れませんよ、ということである。