電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

よく「○○の裏を知りつくしている」とエラそうに言いたがる奴がいるが、そーいう奴は大抵じつは「裏しか知らない」。
ネット世論では、マスコミだの政界だの芸能界だの何だのについての「裏事情」「裏情報」とやらが溢れ返っているが、そうした「裏」だけ知ってればすべてわかったような態度を気取れるというのは、中二病の発想だ。
実際、それらの「裏事情」「裏情報」が事実であったとしても、ただ「知っている」というだけの奴の何が偉いのだろうか?
その昔、浅羽通明は『ニセ学生マニュアル死闘篇』で、「世界は実は○○が裏で仕切っている(○○にはフリーメーソンでも創価学会でもマリ共和国のドゴン族でもなんでも代入可)」といった陰謀論は、自力では世の中を動かすエリートになれなないが、世の中の裏を知っているという優越感は欲しい人間の心理に支えられていると説いた。
何もせず「裏」をただ「知っているだけ」の人間より、努力して「表」で働いている人間のほうが偉いのが当たり前だ。

中二病(厨二病)

中二病だと思うものを列挙するスレ」というのを見かけた。
オタクっぽい漫画やアニメや不良っぽいJ-POPミュージシャンやら、ありとあらゆる物が中二病扱いされていたが、じゃあ逆に「厨二病中二病)じゃないもの」は何かという話になり、洋楽だの、高級車だの、あるいは普通のサラリーマンだのを挙げる者もいたが、そういう発想自体が厨ニ病だとツッコミが入っている。この世はすべて厨ニ病かよ!?
中二病厨二病)でないもの」がありえるなら、それはオタク文化とか不良文化とかスイーツ文化とかいう、ジャンルの問題ではないだろう。
たとえば「いい年して漫画やアニメやゲームや特撮といったオタクジャンルが好き」ということ自体が恥ずかしいのではない、それを躍起に権威づけようとして「ジャパニメーションは世界に日本が誇る文化で〜」とか言って、経済効果の数字の話をひけらかしたり、東浩紀の難しいエロゲー批評を口真似したりするスノッブな態度が厨二病的なのだ。
逆に「大人の趣味」とされるもの(よくわからんが、高級車とか高級ブランド品とか高級ワインとかグルメとかリゾートとか?)も、それを「これが大人の趣味なんだよ、それがわからない奴は〜」などと一方的に偉そうにひけらせば、単なるスノッブに堕す。
つまり、ジャンルが何であれ、それをもって一方的に「俺はカッコいい」と思って粋がったり、それで世の中をすべてわかった気になってエラそうな顔をするスノッブな態度、それが、中二病厨二病)ということではないのか?
だとすれば、「中二病厨二病)でないもの」がありえるなら、それは文化のジャンルを問わず「謙虚で柔軟な態度」だろう。人はそれを節度という。
(↑と、この見解に「こういうのが中二病的」とツッコミ入れる人がまたいるのかも知れないが…)

健全なネットワークビジネス

しばし前、民主党の議員が「健全なネットワークビジネスを育てる議員連盟」とかいう珍妙な議連を作っていた。
「健全なネットワークビジネス」とは「人を殺さない原爆」ぐらいの矛盾かと思う。しかしである、五百歩譲ってそんなものありえるなら、二つの条件を定義したい。
第1は「営業成績の良い会員を皆で誉めたたえて会員を煽る集会をやらない」
普通の会社でも好成績の者を誉めることはあるだろうが、ネットワークビジネスマルチ商法MLM)では、やたら派手な集会で、好成績者をいちいち人生の成功者のように美化する。要は他の会員の射幸心を煽ってるだけなのに、なんで偉そうに人生の説教すんだよ。
(もう何度も書いたが、わたしが一日つき合わされてウンザリしたネットワークビジネス団体の、押しつけがましいバカ明るさに満ちた集会の話はこちら
第2は「原則として友人や親類ではなく見ず知らずの人間を勧誘して商品を売ること」
ネットワークビジネスは、会員の友人、親、兄弟、親類などに商品を売らせるわけだが、本当に良い商品なら、なぜ、たまたま電車で隣の席に座った見ず知らずの他人相手に売らない? この手の団体の商品は、本当に商品の質自体ではなく「友達の頼みだから断れなくて買ってやった」ということで売上を伸ばしているのではないのか。

男女不平等

しばし前『SAPIO』が「「女尊男卑」行き過ぎていませんか?」という特集をやっていた。
まあ確かに、痴漢冤罪の横行だの女性専用車両の一方的導入はわたしもムカつく、男だけは隣の人(が女性の場合)に偶然に手が当たっても痴漢扱いなのは男性差別だろ、と思う。
しかしだ、フェミニストなど「プロ弱者」の権利意識濫用に、「こっちこそ弱者だ!」と同じく権利意識濫用で対抗するのは、みずから相手と同レベルに堕ちる愚ではないか?
左右をひっくり返して言えば、平和憲法遵守・自衛隊海外派遣反対のはずのピースボートが、ソマリア沖では自衛隊に護ってもらうことを希望したのと似たようなみっともなさだ。
じゃあ、どういう解決ならいいんだよ? と言われると答えに困るが、これは理屈ではない。以前も述べたが、女がレイプされればただ悲惨だが、男がホモレイプされれば、悲惨でもあるけれど、どこか笑い話になってしまう(された側にはたまったものではないが)。
男二人組のアウトローを描いた『明日に向かって撃て!』は破滅に終わってもどこか前向きに笑えるが、これが女二人組の『テルマ&ルイーズ』は、ほぼ同じ話のはずなのに、悲しい話になってしまう。
しかしこれは理屈ではない。あえて言えば、生き方のありようとでもいうべきか…。
しかしそもそも、理性で「平等という(自然や伝統に反する)理屈」を唱える左翼に対し、「(男と女は違うといった)理屈でないもの」を救出する側が保守なのではなかったか?

関係概念としての人間

とまあ、本日は脈絡もなく書き連ねてしまったが、無理やりオチのようにまとめてみる。
人間を定義するものとしては――
「裏とか表とか何を知っているか」より「どういう社会的ポジションにいるか」
「どんな趣味ジャンルトライブか」より「他のトライブにどういう姿勢を取っているか」
「どこで何を売っているか」より「誰と一緒に誰相手に売っているか」
「男か女か」より「男なら何がカッコ良く何がセコいか(女もまた同様)」
――という具合に、単純な実体概念ではなく、関係概念としての側面のほうが重要、ということではないのか。こう書いてみるとなんか偉そうだが…。
人は往々にして、目に見える属性の違いだけで他人や物事を判断してしまう。
ま、今回も自戒込みだな。