電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

力の行使について(覚え書き)

竹島問題がらみで島根県のWEBサイトに韓国から大量のDOS攻撃があったという。
少し前に中国の反日デモで日本企業経営の店舗が襲撃された時もそうだが、今の日本人の感覚の基準では、こういうことは、やる方が恥かしい事となっている。
何度も述べてきたが、今の日本の嫌中、嫌韓論者の多くは、被害者意識の強い非暴力主義者である。だから朝鮮総連を懲らめしてやろうとした建国義勇軍のテロにも(一切怪我人、死人を出さなかったにも関わらず)一切共感せず、むしろあれは自作自演だと断定した。
この徹底したヘタレ的非暴力主義、泣けば官軍、被害者が正義、という論理は、良くも悪くも、愛国者を自認する方こそ戦後平和主義に浸かっているという矛盾はさておき、戦後平和主義と成熟社会の成果だ。いずれ、韓国も中国も、我が国と同様に「実力行使はする方がダサい」というヘタレが庶民感情になれば、平和が実現するということだろう。
が、泣けば官軍、被害者が正義、のヘタレ的非暴力主義が常に国際的に通用する保障はない。つーか、それはひょっとしたら戦後の敗戦国だけのローカルルールでしかないのではないか? 実際、戦後これまでの、フランスのインドシナに対する態度、中国のチベットに対する態度、旧ソ連アフガニスタンに対する態度、イギリスのフォークランドに対する態度、アメリカのイラクに対する態度、旧戦勝国は、いずれも「力の行使」を正当と考えて行動している。また逆に、戦前は日本でも「力の行使」は時として手段の一つとして恒常的に使用されてきた。
少し前、保守系論壇誌で「張作霖爆殺はソ連の陰謀」説というものを読んだ。あくまで背景として旧ソ連の徴発工作に引っかかって乗せられた、というような見解だったが、その背後になんだか「日本は常に被害者」「日本は一切自発的に力の行使を行なったことはない」と言って正当化したいかのような空気を感じ、ちょっと嫌だった。それを言えば、日露戦争時、日本の明石元二郎大佐らがロシア帝国の弱体化を図って意識的にロシア国内の革命勢力を支援した事は、多くの人間が認めている。
わたしは、正当な愛国者、保守論者としては「日本はハメられた。被害者」などと言うより、「なるほど日本も力の行使を行なった。しかしそれは当時カクカクシカジカのやむを得ない事情があり、必然だった」と論じるべきではないかと思う。だが「日本はハメられた。被害者」が基幹の論法になっているというのは、愛国者、保守論者を自認する方も、泣けば官軍、被害者が正義、の戦後民平和主義にすっかり染まっているという事だろう。
ゆっとくが、「力の行使」などせんで済むならしない方がよいに越したことはない。わたしもテロも戦争はイヤである。が、戦前日本は、また戦後も旧戦勝国は、これを当然のように選択肢の一つとしていた。これは、良い悪いではない、とにかく実際そういう現実がある、という意味で、無視すべきではないことだろう。