電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

「あれはウチの子ではありません」

さて、以前この「電氣アジール日録」ブログの編集欄の「リンク元」を見ていたら、「スーフリ + 和田 +在日」というキーワードがあった。
わしズム』最新Vol.19号に切通理作も書いているが、この2、3年ばかり、ネット上では、何か事件が起きると、脊髄反射のごとくその犯人を指して「在日だ」と言ってみる傾向が顕れている。
まあ、半ば自覚的に「ネタ」として行なわれていることだろうが、「犯人が在日だったらいいな」という願望は本音だろう。
これはわたしが、浅はかな偏見で、消費者金融や証券会社やクレジットカードローン会社の勤務者は一切すべて穢れているッ! と思いたがっているのと同じ構造である。
何か異常な犯罪者、自分たちの平和な共同体秩序を乱す者が出現した場合、「それは自分の身内じゃないで欲しいな」と思う感情自体は、人間としては一応自然なものだろう。
かつて1997年に神戸市須磨区酒鬼薔薇聖斗の事件が起きた時、犯人が捕まるまでの間、周辺住民は「早く捕まって欲しい」と強く思いながら、同時に、同じぐらい強く「うちの須磨区の人でありませんように」と思っていたという。果たせるかな区内の中学生が捕まると、逮捕されて嬉しいより区内から犯人が出て戸惑っている感情があったと報道された。
共同体秩序に安住して生きる多数派にとって、たまに顕れる異常な犯罪事件を起こす人間とは、その共同体の外部からやってくる異人、異物、人外のモンスターであってくれなくては困るのだ。
だってそうだろう、同じ地元の善良な仲間と思っている人間からそんな「怪物」が発生しては怖くてたまらない。それに、そんな突然変異的な「怪物」のせいで、同郷の自分まで同類に見られるのはたまらない……そこで「エンガチョ」となる、ケガレを押し付け、自分の身内からは分離分割となる。