電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

差別の善用は可能か

以前からもう何度も何度も何度も何度もしつこく書いていることだが、わたしは激烈な差別主義者である。毎日のようにナチスのような民族大虐殺をやっている。ただし脳内で。
毎日、瑣末なことでムカつく。
たとえば、自転車で買い物に行ったら、前から子供連れのおばさんが来たので避けようとしたら相手も同じ方向に避けようとして結果なんだか自分は意地悪通せんぼ野郎になってしまった。
こんなとき「くそっ!! 俺は悪くない!! ワザとじゃないぞ!! 俺のせいじゃない!! だがあのおばさんも悪くない……じゃあ悪いのは誰だ? ……えーと、えーと、そうだ! リバコ人(仮称)のせいだ!! ちくしょーリバコ人め地獄に落ちろ!!」と怒りの発作に任せて(脳内)リバコ人強制収容所からリバコ人を(脳内)銃殺刑にして怒りを抑える……が、30分後にはもう忘れている。しかし翌日また同じよーなことを繰り返している。
リバコ人(仮称)と書かれても何のことやらサッパリわかるまい。そりゃそうだ、これはわたし一人の脳内被差別民族だ。ただし、完全な実在しない創作物ではない。
要するに、わたしが10年前に一日付き合わされてさんざん嫌な思いをしたネットワークビジネス団体「リバティコープ」の関係者のことである。
が、実際「リバティコープ」という団体はとっくに消滅し、元会員は足を洗ってちりじりばらばらである。しかし、元幹部の連中はまた別のネットワークビジネス団体を作ってカモから金を巻き上げウハウハとよろしくやっているらしい。そこでわたしはその幹部数名を勝手に「リバコ人」と名づけて罵倒することにした(←小学二年生レベルの発想)
で、わたしは毎日、この「脳内リバコ人(仮称)」を瑣末なくだらない怒りのはけ口にしているわけである。ハッキリ言って、道で犬のうんこ踏んでも、トイレで紙がなくなっても「チョンのせいだ!」わめく嫌韓厨とまるきり変わらず同レベルである。
かようなわたしには、まあ到底、自分以外の差別主義者を批判する資格はないであろう。
だが、ひとつ言いたい。わたしの「リバコ人差別」は、ユダヤ人差別や黒人差別やパレスチナ人差別や在日韓国人差別や同和地区出身者差別やフツ族によるツチ族差別やセルビア人によるクロアチア人差別やその他いろいろとは違うのだよ。
黒人もユダヤ人もその他いろいろも、みなみずから好き好んでそういう被差別少数者に生まれたのではない。しかし「リバコ人」はみずから好き好んでネットワークビジネスに従事しているのだ、差別されるのが嫌ならネットワークビジネスを辞めて新聞配達員なり古書店員なり自衛官なり専業主婦にでもなってくれれば良いのである。文句あるかね?

「世界公認被差別階級」は可能か?

さて、世界から戦争がなくならないのと同様、世界にはユダヤ人差別や黒人差別やパレスチナ人差別や在日韓国人差別や同和地区出身者差別やフツ族によるツチ族差別やセルビア人によるクロアチア人差別など多くの差別が存在する。
しかし、いくら差別は良くないと言っても、人間にはおそらく差別欲というものがある。
岸田秀フロイトを援用して述べているところによると、人間は本能の壊れた動物であるらしい。つまり、食欲も性欲も本来は本能を満たすことが目的だったが、人類はいつしか、食べることそれ自体や性行為それ自体に快楽を見出すようになっている、だから珍妙な美食趣味や、生殖行為と無関係な各種のフェチシズム性癖が存在するのだ云々、と。
そうすると、差別行為というのも本来は敵民族からの自己防衛などといった生存本能に根ざすものであったのだが、差別それ自体が快楽になっているのではないか?
実際、差別とは人に優越感の快楽を与える者である。サエないうだつのあがらないモテない自分でもあの○○よりはエラい、と。
(↑この○○にはユダヤ人でも黒人でも愛知県人でも中野区民でもマリ共和国のドゴン族でも何でも代入可能)
無力な弱者にとっては、前段で述べたように権威を求める心と、差別心は表裏一体である(ファシズム政権は巧妙に民衆に崇拝の対象と差別の対象とを提供してくれる)。
では、そのような、やむを得ず「差別欲」を持つ人々に、ユダヤ人差別や黒人差別やパレスチナ人差別や在日韓国人差別その他に換えて、リバコ人を「コイツならいくらでも差別しても良い」という「世界公認被差別階級」を提示してはどうだろうか? と夢想する。
自業自得の悪徳リバコ人が世界から憎まれる代わりに世界から差別はなくなる!! どうだろう、美しい解決策ではないだろうか?
――だが、このノーベル平和賞級の美しい理想は、絶対に実現できない。
なぜなら、わたし以外の人間にとっては「リバコ人」など、どーでもよいからであるw
イスラエルユダヤ人にとっては目の前のパレスチナ人が目障りなのであり、アメリカの白人には目の前の黒人が目障りなのであり、セルビア人にとっては目の前のクロアチア人が目障りなのである。
彼らに「黒人差別なんてダサいよ、それよりリバコ人を差別しようよぉ〜」と持ちかけても、「ハァ、リバコ人、なんじゃそりゃ? そんなもんワシには関係ない」と言われて終わりだ。人の憎しみとは本来、漠然とした対象に向かうものではなく、個別具体的な対象あって成立するものなのである。
つーか、そもそも、わたしが「リバコ人(仮称)」を憎むのも、自分が「リバティコープ」に一日付き合わされて生涯忘れられないぐらい不快な思いをしたから、という、一個人の個別具体的な私的事情が理由ではないか! ああくだらない!! わたしがいくらリバコ人(仮称)を憎もうとも、パレスチナ人の嫌いなユダヤ人、クロアチア人の嫌いなセルビア人、ツチ族を嫌うフツ族には、まるっきりどぉーでも良い話なのである。
――このように考えるとき『コードギアス反逆のルルーシュR2』の最終回で、主人公ルルーシュが「全世界の人民の敵として人々の憎しみを一人で引き受けて死ぬ」という役回りを演じたのは、もぉ本当にマンガ的夢想とか言いようがない。しかしそれだけに、このマンガ的夢想を真正面から描ききってくれたことには偉大さを覚えずにはいられない。