電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

葦原骸吉2011年の収穫

1.(とくになし)

本年は「とくになし」です。
あえて言えば、震災やら、原発事故やら、カダフィ謀殺やら、ビンラディン謀殺やら、ロンドン暴動やら、中国列車事故やら、健康診断の結果が高血圧やら、友人が借金返さんやらの現実の前に、読書やら映画鑑賞やらが吹っ飛んだということで。

2.映画『拝啓総理大臣様』監督:野村芳太郎

以前取り上げた『拝啓天皇陛下様』の姉妹編のようなもの。ただし主人公はまったく別人で完全に戦後の話。単に渥美清が似たような性格の人物を演じているだけ。
話の舞台は1964年、東京オリンピックの年だ。主人公は落ちぶれた元漫才師で、元の相方(演じるのは長門裕之←若い頃は桑田佳祐そっくり)はその妻と組んでテレビで売れっ子になっている。そこで主人公は自分もGIとの混血の少女を新たな相方にして再デビューをはかるのだが……というお話。
序盤で主人公のやってる仕事は「犬殺し」、相方はGIと混血の「黒んぼ」、その相方の母親の現在の亭主は耳が遠い「片つんぼ」、主人公が路上で喧嘩する相手は「吃り」、そして主人公の以前の相方は売春婦の「パンパン」……とまあ、どう考えても現在の地上波では放送できない設定!!(笑)
内容は、昭和30年代当時の格差社会、敗戦直後に生まれたGIとの混血児への差別、急速に進む交通事故問題、当時の土地開発やらテレビ業界の裏、とすさまじい密度。
主人公が相方に選んだ混血児は、実の母に会いに来ても娘だと認めてもらえない。その後、この母親は事故に遭ってうわごとで申し訳なさそうに娘に謝るのだが、現在の亭主が見舞いに来ると、あっさり手の平を返して母子であることを否定する(笑)。ひどい変わり身に見えるが、それが弱い庶民の姿なのだ。
黒人との混血児の娘はすっかり落ち込むが、渥美清の主人公は、自ら顔に泥を塗りたくり、自分も同じだと笑ってみせる。
貧乏人が善良とは限らない。貧困と言えば『闇金ウシジマくん』でも現代型の貧困が描かれているが、最低限の生活は保障されているうえで、目先の欲のため転落した人々の話がメインだ。一方、昭和30年代が舞台のこの作品では「もともと人間はそれぐらい下品でタフ」という前提がある。
漫才師に復帰した主人公は地方のドサ回りで下品な酔っぱらい客にぼろくそにこき下ろされる。芸人とは本来それが当然の世界なのだ。多くの苦労を乗り越えた主人公達は、最後には演芸場の客に楽しげに囲まれている。
ラストシーン、演芸場の客やそれまでに登場した人々の姿と共に「拝啓総理大臣様 この人たちがあなたを選んだのです」というテロップが流れる。
『拝啓天皇陛下様』は、戦時中〜敗戦直後を振り返るノスタルジーを描いた作品だった。主人公の天皇への(一方的な)紐帯に、古き時代へのロマン(といっても美化されてもいない)が感じられた。この点『拝啓総理大臣様』ではそうしたフィルターはなく、当時の現代に生きる混沌とした人生模様をそのまま描いている。だが『拝啓天皇陛下様』ほどわかりやすく愛される有名作品にならなかったのはそのためではないかという気がしている。
だが、本作こそまさに『コクリコ坂』(後述)の補完的内容の作品といえるだろう。

3.漫画『羣青』中村珍isbn:4091885098

男なら不幸や貧乏はギャグにもなりえるし、罪を犯してもピカレスクに居直る道がある。だが、それらは女性には成立しにくい。
本作品は、殺人を犯した女二人の逃避行だ。一方はレズビアンで相手を愛しているが、不幸にして一方はそうではない。どう考えても行き詰まりの陰惨なシチュエーションなのだが、それでも、本作品は嫌な感じがしない。
逃避行を続ける犯罪者にも、目先の些末なことで争ったり安堵したりするような何げない「日常」は存在する。ここが重要。
凄くボキャブラリー貧困な表現をすれば「文学っぽい漫画」。「文学っぽい」とはどういうことかというと「『あらすじ要約』を読んでも意味はない」ということ。
ここでハクつけに蓮實重彦とか持ち出してもいいんだけど、つまり、些末なデティール描写の積み重ねそれ自体が、みんな普段気づかずやり過ごしていたり気づいてもすぐ忘れているけれど、「ああ、世の中って(人間って)そういうことあるよな」という説得力をもって何かを訴える作品、ということだ。
本作の主人公二人は、男の都合で勝手に美化されたヒロインとは対極のような、欲もあれば意地も甘えも打算もある女だ、萌えも癒しも純潔性もまるでない。しかし、お互いが相手のために傷つき汚れることで手にする信頼感の温かみ(なのかなあ?)がある。
これは、悪意なくすれ違ってきた人間同士が対等な関係になってゆく物語なのだろう。果たしてその関係が友情なのか憎悪なのか恋愛なのか何なのかはわからないが。
――あ、それとDVするリア充男はべつに殺しても全然OKだから。

4.小説『二度はゆけぬ町の地図』西村賢太isbn:4043943865

昨年秋に西村賢太芥川賞受賞が決まった前後、坪内祐三が『週刊文春』の「文庫本を狙え!」で取り上げていたので「坪内祐三が現代作家を取り上げるとは珍しい」という理由で注目。年が明けてから今更『どうで死ぬ身の一踊り』『暗渠の宿』『苦役列車』などとまとめて読んだ。
西村賢太の小説を読んで居心地が悪くなるのは、多かれ少なかれ思い当たるフシがあるからだ。文学というのはもともと居心地の悪い物なのである。
西村賢太には、昭和戦前の日本人のメンタリティがある。そう、目先の欲望で生きているのが本来の人間の姿だ。
そして、そういう単純さゆえにこそ、彼の藤澤清造への献身的忠誠心も貫かれているのだろう。先に挙げた『拝啓天皇陛下様』の主人公の昭和天皇への忠誠のように。

6.映画『キック・アス』監督:マシュー・ボーン

人を殴れば自分の拳も痛むし汚れる。そう「正義」は自分勝手だし痛い。でも、痛くてもやり通すから意義があるのだ。暴力の臭いが社会の目に見える場から脱臭された日本ではうっかり忘れられている問題。悪者が斬り殺せるのは時代劇だけだもんね。
あと両作品とも痛感するのは「アメリカ白人男も大変だな…」といった所。

7.TVアニメ『UN-GO』脚本:會川昇

坂口安吾の『明治開化 安吾捕物帖』がアニメ化というので「おおっ!」と思い、実際に放送が始まった物を見て「おおっ?」と意表を突かれる。
恐らく企画が持ち上がったのは1年ぐらい前だろうが、311以降の情勢を意識して設定や脚本を直したんだろうなあ、という印象が濃厚。劇中はSF的な架空の「戦後」だが、大きな災厄を誰かのせいにしたいという群集心理、陰謀論に流れるネット世論などへの皮肉は、じつに2011年現在の世相を反映している。
安吾は『堕落論』で、敗戦をきっかけに人間の本音が露呈したことを前向きに受け止めていた。それを311後の風景に重ねたのだろうなあという意識がうかがえる。でも、じつは人間は堕落一辺倒にばかり行けるものでもなくて、目先の生活がそこそこ整えば偽善者に戻る、ってのも人間なんだけどね。その違和感が『続・堕落論』の方にはにじんでるわけで。
まあしかし、この歳になると「真実」を暴くことにこだわる探偵の結城新十郎より、事件関係者の感情とプライベートを守るため、社会正義に反しない範囲で話のつじつま合わせをするメディア王の海勝麟六の方が気持ちがわかる気がする(って、俺もジャーナリストの端くれの末席ならそんなこと言ってちゃマズいんだが)。
まあ安吾自体、戦前に書いた「文学のふるさと」じゃ、文学とはアモラル(無道徳←反道徳ではない)とか言って善悪など超然とした態度を取りつつ、戦後は競馬の不正摘発などという細かいことに異常にこだわってる。安吾の中にも、真実にこだわる結城新十郎と、アモラルな海勝麟六の両方がいたと考えるべきなのか。
この『UN-GO』では『堕落論』などの引用が何度か出てきたが、わたしが個人的に安吾のエッセイで最高の名言と思っているのが出てこなかったのは少々残念。それは、太宰治の追悼文として書かれた『不良少年とキリスト』の一節。
「原子バクダンで百万人一瞬にたたきつぶしたって、たった一人の歯の痛みが止まらなきゃ、なにが文明だい。バカヤロー。」
311以降の今のご時世にも、皮肉な意味ですごく合ってると思うんだけどね。
とりあえず『鋼の錬金術師』の旧シリーズもだったが、水島精二會川昇は原作付き作品の方が良いと確信。
それにしてもフジテレビ「ノイタミナ」枠の深夜アニメはたまーに予想外の変化球が来る。今年前半の『C』なんて金融や証券の「マネーゲーム」を本当に文字どおりデジモンバトルにしてしまうというぶっ飛んだ設定でひっくり返った。本年は深夜アニメは豊作。

8.小説『ギリシア神話』エディス・ハミルトン/山室静・田代彩子 訳(偕成社

数年前PHP文庫で『世界の神々がよくわかる本』という本の執筆に関わって以来、資料のため世界の神話の本は何種類も読みあさっているが、本書はわたしが中学生の頃、初めて読んだギリシア神話の本。
前から再読したかったんだけど、本年やっと中野区立中央図書館で発見、よもや児童書コーナーにあるとは思わなかった。しかし500ページもある大著だ。
ギリシア神話では神々が天地を作ったのではなく、天地が神々を生んだ、という説明が四半世紀前の初読以来、強く印象に残っている。
ギリシア神話の文学書と言えば岩波文庫にもなってるブルフィンチ版が有名だが、本書の方は編者が女性のためかロマンチックな書き方になってる話が多い。男装美少女キャラの元祖・女狩人アテランタの話は今読んでも萌え。ゼウス神の訪問を受けた老夫婦「バウキスとピレーモーン」の話は泣ける。

9.映画『コクリコ坂から』監督:宮崎吾郎

現実の昭和30年代はもっと、貧乏で大家族が多いから喧嘩も絶えず、プライベートもくそもなく、それゆえにこそ簡単に人は笑い、泣くものだ。観終わった後「こんな単純なオチでいいのか?」と思ったが、よく考えてみたら本作品は「少女漫画」で「ファンタジーとしての昭和30年代」なんだからまあいいやと納得する。
公開直後から、若い主人公達が古い建物を残すことにこだわるのがおかしいという意見が飛びかっていたらしい。
しかし、現実の1960年代の反体制運動の多くは、古い地域エゴイズムに結びついていた。三井三池炭坑の閉山反対闘争しかり、三里塚の空港建設反対運動しかりだ。当時若者に人気のあった高倉健なんかのヤクザ映画だって、大抵、仁義も何もない経済効率中心の新興勢力に対し、古い仁義を守る側が孤独な戦いを挑む話が主流だ。
本作では、バンカラ風の風間君とインテリ生徒会長の水沼君のコンビがいい。
意図したものか不明だが、本作のような「バンカラとインテリ」のコンビは、勝新太郎の『兵隊やくざ』シリーズでの大宮二等兵と有田上等兵白土三平カムイ伝』での、農民一揆リーダーの正助と権など、1960年代の作品には結構あった筈だ。
監督の親父である宮崎駿の映画では、男同士の信頼関係の描写は少ない(せいぜい『ルパン三世 カリオストロの城』のルパンと次元・ルパンと銭形警部、あるいは『紅の豚』のポルコ・ロッソと飛行機整備の爺さんぐらい)。
今後、宮崎二代目が先代とは別の意味での「ファンタジー」(要するにロリコン風味ではなく万人向けの男の子路線)を開拓してくれることに期待したい。

10.エッセイ『「日本史教科書」再読ドリル』小島毅

週刊新潮』の連載記事。現在有名な武将が生きていた当時の呼び名や役職の実像など、時代劇で定着している通説を覆すような話が山盛り。
筆者が本来は日本史の専門家ではなく中華文化圏の思想史の研究者のためか、大陸や朝鮮半島から見て、あるいはより大きなアジアの通商史や文化史の中での日本史というお話も多い。
終盤は、明治期の日清戦争日露戦争などを清朝李氏朝鮮の立場から記すという興味深い論点を示し、このまま第二次世界大戦まで行くのかとワクワクしていたら、明治末まで来たところで連載が終わってしまった。最終回では、諸般の都合により連載を終えることになったとかなんとか記されてる。
保守系の『週刊新潮』にしては異彩を放つ内容、と思ってたんだけど、これは何かの圧力があったんでしょうかねえ……。この連載では、名指しこそしないものの石原慎太郎都知事のことをやたらボロクソにこき下ろしてましたし。

列外.TVドラマ『琉神マブヤー』

沖縄が生んだローカルヒーロー。てきとうな砂浜や野原で怪人と殴り合うだけのすさまじく低予算なゆるさ加減に癒される。
じつは先にも述べた「人を殴れば自分の拳も痛むし汚れる」がテーマ。終盤は、力のない沖縄がいかに生き延びてきたかと重ね合わせて観ると感慨深い。