電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

日清日露戦争当時の日本の指導層は、

江戸時代の身分制度の枠内で価値観が教育された武家エリートで、当時の日本が正しく後進国であることも重々自覚してた。んが、大東亜戦争の頃の日本軍の指導層は、建前上は四民平等の価値観で育った成り上がりで、幕藩時代や日本が明らかに後進国だった時代をきちんと知らないゆえに、欧米列強を、戦争やら外交やらというものをナメていた、と、単刀直入に言えばそういう違いなのだろう。
結局、王侯貴族の戦争は引き際もスマートだが、庶民大衆が成り上がり欲のために進める戦争はねちっこい、ってことか。皮肉な話である。
なんか最近こんなころばかり書いてる気もするが、王侯貴族のいる身分制社会の方が、万人がその欲望のままに人を押しのけて成り上がって良いという近代より、ある意味では平和と秩序が保たれていた、というということなんだろう。
また漫画の話だが、池田理代子の『エロイカ』(『ベルサイユのばら』の世界観を引き継いだナポレオンの一代記)とかを読むと、18〜19世紀のヨーロッパの外交では、フランスなりドイツなりロシアなりのごく一部の王侯貴族が、一国を代表して馴れ合うことで逆説的に平和が保たれていたが(どこの王侯貴族も政略結婚のため国境を越えて親類同士である)、それが万人平等の市民社会になってから、全国民を上げてのナショナリズムによる国同士のぶつかり合いが盛んになってきた、という構造があるようだ。