電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

義理と人情と独裁政治

今回は、80年代米ソ冷戦時代の中南米ゲリラ紛争や旧ソ連末期に噴出した民族問題の本とかを大量に読み漁ったわけだが、それで改めて痛感したことは多い。
その裏を返して思うのは、つくづく日本はたまたま運の良い近代化を遂げられたということなのだろうか、という次第。
途上国では、血縁政治、情実寡頭支配が多いが、中南米でもそれは根強い。
たとえば、内戦勃発まで43年間にも渡ってソモサ一族の独裁が続いたニカラグア、「十四家族」と俗称される一部の大地主が国内経済を独占したエルサルバドルなどが良い例で、ハイチに至っては、独裁者デュバリエの息子は20歳そこいらで政権を世襲したのだから金正日顔負けだ(ただしその後すぐに失脚した)。
さて、これはわたしの偏った知識にもとづくひとつの解釈で、断言はできないのだが、中南米のこの手の血縁政治というのは何かラテン文化の気質と関係あるのかも知れない。と、いうのは、ナチス時代のドイツでは、血縁による情実人事は少なかったが、ムッソリーニ時代のイタリアでは、血縁政治が横行したと聞くからである。
確かに、少々偏見めくが、ラテン気質と聞くと連想するもののひとつは、映画の『ゴッドファーザー』シリーズや、ベルトリッチの『1900年』などにも出てくるような、やたらみんなで飯を食う大家族主義である。この文化は、なんとなく、個室文化が発達する以前の大部屋的なローマ帝国の気質に起因するような気がする。
当然、現代の民主主義の考え方に立てば、血縁政治はケシカランとなる。だが、その内側に居る人間の気持ちでものを考えれば、親類の一人がたまたま中央政界で(軍事クーデターか何かで)権力に就いたら、その田舎の親族としては「お前一人だけ栄華を謳歌する気か? 昔はお前のこと世話してやったろうが、俺にも分け前よこせ」と言いたくなるのが、下世話だが率直な人の心情の本音である。
こういうとき、いかに血縁だろうと突っぱねるのが、寒い土地で個室が普及し個人主義の発達したゲルマン人気質だが、親族の縁を断れないのが良くも悪くも大部屋的なラテン気質なのかなあ? というイメージがある。あくまで印象だけどね。