電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

意見がまとまらないのは善きこと哉

例によって、話題の旬が過ぎてかけた頃になって今さら後出しジャンケン的発言をする。
秋葉原通り魔事件が起きて以来、ネット世論では、犯人の加藤智大を、搾取された派遣社員非モテ男子の代弁者と見なす声、またそれを否定する声などが入り乱れた。
まあ、同じ環境条件でも個人の資質その他でいくらでも人間は違う存在に育つんだから、事件をある一側面から解釈することはできても、一元的理由に還元するのは無理だろう。
例によってソースもないのに脊髄反射で犯人は在日だと決めつける発言もあったが、今回はこれはあまり広がらなかったように見える。これは、今回の事件に関しては、良くも悪くも、犯人が「一切ボクらの仲間じゃない他人」とは思わない人のほうが多かった、ということなのだろうか?(再掲:ケガレ意識について(覚え書き) http://d.hatena.ne.jp/gaikichi/20060730#p2)。

「ネタ」というローカルルールと排除

とか思っていたら『週刊新潮』が、2ちゃんねるの”一部”に加藤智大を「神」とか「英雄」とか賛美する書き込みがある、と報道して”ネット世論では”袋叩きになった。
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1140796.html
まあ確かに、2ちゃんねるを中心としたネット世論にも、一方で加藤智大を非難する声も強いし、こいつを「神」とか「英雄」とか賛美する書き込みは少なからず「ネタ」だろう。が、該当のスレッドを探して読んだら、どう考えても本気ではないか、という書き込みも少なくなかった。
なるほど、今回は犯人加藤某本人に対して、根拠がなくても印象で在日とかいう勝手なレッテル貼りをして、とにかく「ボクらの仲間じゃない人間」とする排除は働かなかったが、加藤某を「神」とか「英雄」とか賛美するごく一部のネット世論内の声に対して、とにかく「ボクらの仲間じゃない人間」とする排除が働いたというわけか?
さて、『週刊新潮』の報道を”ネット世論では”ほとんどの人間が「ネタをネタと〜」の常套句でバカにしている。
しかしだ、この「ネタ」という概念は”ネット世論では”定着していても、日本じゅうどこでも通じるというわけではないローカルルールではないか?
逆に、もし仮に「原宿の女子高生の間(だけ)じゃそんなの常識」とか「高給住宅地に住む中産階級の主婦の間(だけ)ではそれが常識」とかいうローカルルールで、2ちゃんねるをよく見てるような男性が一方的に「キモい」とか「こーいう男が痴漢とかするのね」として決め付けられ切り捨てられたら、これはたまったものではない。

世論の「ねじれ」はむしろ歓迎すべき現象か

本来『週刊新潮』は、反朝日新聞、反中国、反創価学会の急先鋒だから、2ちゃんねるを中心としたネット世論とは相性がよいと思われたのだが、右派傾向が強いとされるネット世論と在来の保守論壇が一枚岩ではない「ねじれ」の一側面が露呈したとも言える。
アサヒ系の『AERA』とかは、まさにこれをチャンスと思って、秋葉原事件にかこつけて派遣社員の労働問題とかについて現代資本主義を批判する大真面目な記事をやりゃあ良かったのに、恋愛格差やらモテ非モテの問題に論点を持って行きやがった。
こういう局面こそアサヒ本来の左翼体質丸出しになるべきなのに、『AERA』は相変わらず若者に媚びたつもりでズレてるのか、トヨタ系列かどっかから広告主タブーが働いて日和りでもしたのか?
まあしかし、ウヨ世論も一枚岩ならずサヨ世論も一枚岩ならず、というのは、案外、そっちのほうが健全なのかも知れない。
ネット世論ウヨサヨ論議好きには、世の中を単純な二元論図式だけで見たがる人間が多いが、それは事象を正確に把握する努力を怠った早あがりの理解である。
戦後の左翼・革新陣営は、社会党共産党の対立、さらに新左翼各党派の分裂と醜い内ゲバを繰り返してきたが、右翼・保守陣営もじつは同床異夢の呉越同舟だった。
今のネトウヨは「日本の左翼とか韓国とか中国とか在日とか創価とかの反日陣営は全部裏でつながってる」なんて単純な図式を信じたがってるが、そんな単純な話はない。
ネット右翼が「韓国の宗教団体だから」という理由で蛇蠍のように嫌う統一教会原理研は、反共産主義の急先鋒で、皮肉にも、自民党の政策に大いに貢献した。
が、反朝日新聞、反中国、反創価学会の『週刊文春』は、統一教会批判の急先鋒で、その『週刊文春』と、同じく保守系の『週刊新潮』もなぜかしょっちゅうケンカしている。
……こうして見ると誰がどっちの味方だかわけがわからない。
とりあえず、ネット世論の中にもいろんな人間がいる、そりゃ、秋葉原通り魔事件の加藤を本気で英雄視する人間も、ごく少数は本当にいるだろう。自分の陣営と思っていた中に意外な人間がいれば「一緒にするな」と言うが、逆にはじめから「ボクらの仲間じゃない人間」と見なしている相手はひとくくり、というのは、安易なものの考え方だろう。
むしろ、考えようによっては、ネット世論もマスコミも一枚岩ではなく、常に異物もいれば異端意見もあるお陰で、すべてを一色に塗りつぶすファシズム(当然、左翼によるファシズムスターリニズムも含む)も成立せずに済んでるともいえるのではないだろうか。