電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

戦争と日常

今頃になってやっと若松孝二キャタピラー』を見に行く。
前作の『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』の次にこれを撮りたくなったのは凄くよくわかる気がした。
かつて、吉本隆明連合赤軍について「日常性に復讐された」と述べたそうである。
連合赤軍は、日常性が欠落した集団だった。
普通の人間ならなら会社で仕事している以外のプライベートの時間は自由だ。ところが、連合赤軍は24時間365日革命兵士であろうとした結果、掃除が不充分だと革命兵士失格、一人で勝手に飯を喰ったら革命兵士失格、と、日常の些末なミスや私的行為のすべてが総括という名の制裁の対象になってしまった。
キャタピラー』はその逆である。連合赤軍のような小難しい理屈はなく、ただ飯を喰う、寝転がる、エロいことをする、ひたすらそんだけのうんざりするような日常描写の繰り返しだ。
本作品のモチーフである江戸川乱歩の『芋虫』は、戦前左翼のプロレタリア文学批評家から厭戦文学として絶賛されたが、乱歩には本来そんな意図は毛頭なかった。
乱歩が描いたのはあくまで、手足を失ない言葉も喋れなくなった軍人という、ほとんど人間の形を失った対象に向けるその妻の愛憎入り交じったドロドロの感情のドラマなのだが、延々としょうもない日常と性行為を描く若松孝二の作風は、結果的にこの題材によく合っていたようだ。
そして、この作品を観た多くの人が感じたことだろうけれど、主演の寺島しのぶ傷痍軍人の夫に向ける、憐れみと優越感とそれでも愛情のようなものがない交ぜになったような喜怒哀楽の表情、さらに芋虫と化した傷痍軍人を演じる大西信満の、無言で相手を拒絶したり、戦場での過去を思い返して恐慌に陥る表情など、説明的台詞に頼らない役者の顔の演技が本当に凄い。映像メディアである映画の、文学にはない描写力を生かし切った作品を久々に観た気がする。
ただ、一個人的には冒頭とクライマックスの戦場レイプ描写は少々クドい印象。ああいう形で戦争の残虐性を強調したかったのはよくわかるのだけれど、本作品はせっかく、戦場の戦闘とは無縁の、戦時中の田舎の村のリアルな日常を描けているのだから、村の普通の人々の間の「お国のためなんだから〜」とか「軍神様の妻なんだからそれにふさわしい態度を〜」とかいう同調圧力プレッシャーの怖さを描くことのほうに徹底してくれたほうが良かった気がする。

なぜ人間は血のつまったただの袋ではないのか

ところで、本作品を観ていてふと連想したものがある。
この映画と一緒にするのはどうかと思われるが、それでも正直にミもフタもなく書いてしまうと、わたしの父が末期癌で亡くなる直前の姿だ。
このブログでは数年前、かつて一瞬だけ殺人を考えたことを告白した。その相手というのは、じつは自分の実父のことである。
わたしの父が癌で亡くなったのは10年ほど前の話だが、入院して二か月もした頃には、身体はすっかり衰弱して見る陰なくやせ衰え、安静にするためのモルヒネ投与で目を開けたまま昏睡を続け、声を掛けても手を触っても反応はなくなっていた。
しかし、わたしの母はそれを「ただの生きる物体」とは思わず、意識は失っていても自分の亭主であると思って介護を続けた(本当に頭の下がる夫婦愛だが、わたしは母が父からろくな扱いを受けていないことも知っている。母としては「勝手に死ぬな」という思いがあったとしてもおかしくはない)
一度わたしが仕事の合間に見舞いに行ったとき、明け方の1、2時間ほど、母が着替えを取りに家に戻ったので、昏睡している父と二人っきりになった。それで「今俺が生命維持装置を外せば、親父もお袋も楽になるよな」などと考えたのである。しかし結局、実行しなかった。それをやっていれば確かに母は楽になったろうが、それまでの母の苦労も無駄になる。相手は自分の夫だとか父親だと思っている限り、ただの生きた物体ではないのだ。
今年の夏は日本各地で死後も家族から物体として扱われた老人の存在が発覚したが、30年、40年後の老いたわたしたちは、他の誰かにとって、ただの生きる物体ではなく人間として扱ってもらえるだけの価値を持っているだろうか?