電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

女戦士たちよ、暴行男、言い訳男どもを撃ち殺せ!!

『Z GUNDAM HISTORICA』03号「月の裏側」(講談社)発売。
今回はキャラコーナー「星々の群像」が、優等生キャリアウーマン・エマとシャアに構ってもらえなかった哀れな業物女レコアという、歴代ガンダムきってのきついお姉さん二人なので、コラム現実認知「RealizingZ」で、「「戦う女」エマとレコアは「負け犬」の夢を見たか?」と題して、偉そうに80年代フェミニズムからバブル期、そして現在のキャリアウーマンを概説。
Zの放送された1985年って、男女雇用機会均等法が成立し、土井たか子が最初に社会党(当時)委員長に就任した年だったんすよ、知ってた?
ちなみに、文中の「バブル期は会社の経費で女子におごる事ができて、バブル崩壊後それができなくなったせいで女子社員元気がなくなった」という説の元ネタはは中森明夫の発言。
ついでに、彼女らの「父親役」としてのブレックスバスクの父権についても軽く検証。
それにしても、真っ白な世間知らず娘だったハマーンやクェスやサラを、おだてて自分の色に教育してこまして、要するに自分でも御せる女だけしか手許に置こうとしないシャアやシロッコの、小室哲哉のかつての華原朋美に対するよーな態度には、文系鬼畜の臭いがして気持ち悪い。
ホラ、いるだろ、地方から上京してきた少女に、バンドでも劇団でもオタクサークルでも市民運動でも何でも、「キミは素晴らしい才能の持ち主だ」とか「この業界の事を一番よく知ってるのはボクだ」とか言って兄貴面で取りって擦り寄る奴。
国士館大学サッカー部や帝京大学ラグビー部のようなわかりやすい体育会系鬼畜レイプ魔も当然許し難いが、そーいうのとは別の意味で、この手の文系鬼畜も悪質でいやらしいぞ。
なお、同03号では当方は、エピソードガイド「Drama & Karma」枠の方のコラム現実認知「RealizingZ」では「30バンチ事件と大量殺戮兵器の拡散」と題して、偉そうに毒ガス、核兵器のカジュアル化傾向を指摘。つい先日も、山口県の高校生が私製爆弾でいじめに復讐なんて事件があった、『太陽を盗んだ男』はもう冗談じゃねえぞ。

10日遅れの後出しツッコミ

トラックバックがつくということは「良かったら読んで下さい。さらに気が向いたらご意見ください」という意味だと勝手に思っているので、(id:kanose)氏の「ARTIFACT@ハテナ系」の
http://d.hatena.ne.jp/kanose/20050714
に、ここのところ多忙だったゆえ遅ればせながら、勝手に思う事など……

 それは、戦後民主主義の状況下に於ける家族像の変化、父親という存在の定義の変化と無関係ではないように思う。つまり、家父長制的な強い男になりたいのではなく、核家族的な優しい父親になりたいのだという願いが、オタク化した男性の達成願望として表面に出てきたのだけども、従来のポルノメディアがそのニーズに対し、あまりにも旧態依然だったことが原因でもある。

この辺の問題について触れたいわけだが――いかに多忙だったとはいえ、ネット世論の速度じゃ、10日の遅れはもう前世紀かなあ……まあしょうがねえ。

「戦前は父権があった」って神話じゃない?

杉並のラピュタ阿佐ヶ谷で「戦後60年記念企画 八月十五日、その日まで。」の中の上映作品として『ハワイ・マレー沖海戦』『太平洋の嵐』などを観る。
『ハワイ・マレー沖海戦』での、少年航空兵学校の場面は、当然、戦時中の映画だから実地取材フィルムなのだが、海戦シーンなんかよりずっと圧巻だった。
何万という数の、それぞれの田舎から飛行機乗りに憧れてやってきた少年たちが、一斉に起床、点呼、食事、体操をはじめ、ずっと年上の学生と共に辛い訓練に励み、汗を流し、笑い、そして遂に念願かなって飛行機で飛ぶ……なるほど、この中で青春を送った人間にとって、この記憶が思想抜きに一番輝かしかったろうこともわかる気がした。
ついでに『潜水艦I号』というこれも戦時中製作の海軍礼賛映画も観たんだが(当初手柄の機会が少なく不人気だった潜水艦乗りの人気向上を目指した戦意高揚映画臭かったが、一般に陸軍よりリベラルと言われた海軍では、その内実、エリート教育を受けてる士官サマは兵卒と食事も違うのだが、潜水艦だけは艦内が狭いから、士官も兵卒も同じ場所で同じ物を食う、という点など『ローレライ』でも描いて欲しかったな)、これも含めて、見事に共通する黄金のパターンがあることに気づいた。
父親の影がまったくないのである。
いや、艦長や艦隊参謀のような、渋い大人の男たちは画面に多数登場する。
どういう意味かと言うと、いずれも、主人公は、元はド田舎の素朴な農家の少年で、なぜか決まって父はなく、老いた母と暮らし、その母の面倒や家の野良仕事はどうしようか、と思いながらも、しかしやっぱり海軍の飛行機乗りや潜水艦乗りに憧れ、さんざん悩んで母に相談して軍に入隊する、というのがお決まりだったのである。
特に『ハワイ・マレー沖海戦』海戦で、主人公は飛行兵学校に入った当初、母を恋しがってたのに、それが任官し軍功を上げるにつれ、その母は、周囲に「立派なお子さんだ」と持てはやされても「あの子はもううちの子じゃないですから」と言うのは胸に刺さる(「うちの子」でないというのは「天皇陛下の子」って意味なのか……)。
戦時中から、家庭内に君臨する父なんぞより、残された母の孤独にスポットが当たっていたのである。

不在である事が「日本の父」?

要するに、現実の父は側にはいない、その父の影を追って大人の男の世界に入ってゆく、というのが、戦前から王道的な男の子成長物語の典型だったのだ。
思えば、わたしが最も好きな戦時中の映画、坂東妻三郎版の『無法松の一生』は、吉岡大尉の未亡人に密かに思いを寄せる松五郎が、大尉の遺児を、父親代わりとなって影から見守る話だった。
(戦後は正に、「父は大戦で死んだ」というパターン構造ができる)
戦前的父権の典型としてあちこちでパロディ化されてきた星一徹は、実は戦後1960年代、そんな父権など滅びかけた時期に創作されたキャラクターで、彼はなぜ家にいるかといえば、躰を壊して野球選手を辞めたから(復員してきた傷痍軍人!)である。
そう、戦前から高度経済成長期まで、父は家にいない事の方こそが自然でなかったか?
例えば『坂の上の雲』に登場する秋山好古は、晩婚で、常に満洲の戦場やヨーロッパの視察先を駆け巡り、家にいつかず、部下にはひたすら謹厳実直で厳しいが、それは生死を共にするゆえで、その反面、滅多にしか接しない子供にはベタ甘く、そして領事館駐在武官のような仕事も多くこなし滞欧歴も長いのに洒落た趣味など一切なく、生涯質素、しかし酒だけは馬鹿のように大量に飲んだという。
この騎兵大将は、決して家族を愛してないわけではないが、どうも軍務を離れた世界の人間である女子供と接するのに不器用で、男同士の結束の方が気が楽、という人物だったのではないか、という気がしてならない。
そういうのが、良くも悪くも「日本のお父さん」だったんじゃないかなあ、と思うのだ。

そんなに男根原理を自己否定して、じゃあ現実に自ら去勢した奴はいるか?

鹿野瀬氏紹介のササキバラ・ゴウ氏の著作に限らないが、「オタク男は体育会系的な男根原理を否定する」「ボクらは平和的なフェミニストです」と言いたがるオタク男は多い。
まあ、そう言いたくなる気持ちはわかる。だが、わかりやすく鬼畜で悪質な体育会系男を叩く事で自分も性欲があることをごまかしたり、同情でもって少女に取り入ろうとするが如き志向が透けて見えることもあるのは頂けない。
上記『Z GUNDAM HISTORICA』03号コラムで書いたが、男性社会は競争原理である。これに対し、女性は対人関係(端的に言えば恋愛)が自己実現の目安になっている、らしい。
競争原理というのは簡単だ、腕力が強い、金が多く稼げる、学歴がより高い、そういったことである。
これに対し、オバタカズユキ『会社図鑑』での営業職の裏話などを読むと、女子社員の世界では、単純に数値化し得ない器量や好感度の本当に微妙な差で序列が決まるらしく、それは俺のような男にとっては、ガンダムに一切興味ない人にとってのストライクガンダムインパルスガンダムの違いのように、「外部にはまったく理解不能な差異だが、当人にとっては大問題」なものらしい。
わたしは、体育会的男根原理を非難するオタク男というのも、形を変えて、競争原理で自己実現しようとしている側面はあるのではないか、とは思うのだ。例えば、知識量や、コレクションしてるアイテムの多寡とかね。それが悪いとは言わぬ。
だが、鏡の前に立って、毛も生えた自分の裸を見ろと言いたい。脳内では性別のない無性の清潔な生き物になりたくたって、あんたの思考は既に、男性と生まれた肉体によって構成されているだろう(俺もだ)。その自覚は持て、ごまかすな、と。

それにしても「単純すぎる反動」が多すぎる

『TONE』第二号の『電波男』評にも書いたが、「オタク男は本当は優しいんだ」と言いたい気持ちはわかるが、自分から言ったらオシマイだよ。ダンディズムとストイシズムがない。椎名林檎も『歌舞伎町の女王』で歌ってる「♪同情を欲した時に全てを失うだろう」ってさ。
本田透氏には皮肉や嫌味抜きに共感する部分も多いのだが、『TONE』でも書いたけれど、どうも『電波男』を読む限り、非モテ男の怒りの矛先が、蹴落とすべきシロッコのような文系鬼畜モテ男に向かわず、キモメン男を差別する女に向かう構造が、アメリカで白人社会の中の負け組の怒りが勝ち組のWASPに向かわず、より弱い黒人や有色人種に向かうKKKの構造を見るような辛さを感じてしまう点だけは心地よくない。
要するに反動なのだ。
現在、嫌韓、嫌朝、嫌中に励む人々で、嫌ってるくせにやけに詳しいな、と思ったら、意外に、過去、在日の人権向上の団体などに参加していた、という人間が結構いたりする。
要するに、はじめ彼らに善意で同情してたら、彼らの被害者意識に基づく要求はエスカレートする一方で、彼らに同情してる自分まで一方的にたかられ、善意が裏切られたようで馬鹿らしくなった、という論理らしい。
わかる話ではある、大いに同情はする。だが、それで「こんな過去を持つボクはブサヨクじゃないよね?」と承認を求めて嫌韓、嫌朝、嫌中を主張する人間でつるむ、というのはこれも見てて心地よくない。
なるほど、フェミニズムや子供の人権論もだが、一見して耳ざわりの良い、自称弱者、自称被害者の正義、というものが、一見して耳ざわりの良いゆえツッコミの入らぬまま「善意のファシズム」として暴走することへの脅威、これも非常によくわかる。
だが、だからって単純な差別者になってみせるというのは、歪んだ被害者意識が動機、という意味では、批判対象とまったく同レベルの思考ではないか?
男は黙って言い訳せず、男に生まれただけで加害者、という事実を自覚的に受け入れる、というのがダンディズムとストイシズムだろう……と、偉そうに書いてる骸吉君はそれ実践してるの? と言われると、すみません、まだできてませんけど……ごめんなさい……

実用書に非実用的な部分を書く役の限界

このブログの読者に受験生がいるとは思えぬが、『法学部受験の総合的研究』発売。河合塾予備校の受験情報誌がライター初仕事だった当方も少し手伝いしてます。
本当は、裁判員制度導入と日本的世間の問題、知能犯レイプ集団「スーパーフリー」の法的言い逃れの構造分析、捕虜虐待と戦時国際法、など、「法学」には関係あっても受験にはまるで関係ないコラムを多数執筆しましたが、諸般の事情で大部分がカットされてしまいました。残念。
でも、巻末の「法学部受験者おすすめブックガイド・シネマガイド」で、青木雄二ナニワ金融道』やら、ドストエフスキー罪と罰』やら、日本のBC級戦犯を描いたオーストラリア映画の『アンボンで何が裁かれたか』の紹介を書いてたり……まあ、物好きな人は書店で手にしてくれたら嬉しいかも。
――とりあえず、先月末の『TONE』以来、一ヶ月間に4回、自分の書いたものが書店に並んだのはライター業10年で初めて、ってことで……