電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

不在である事が「日本の父」?

要するに、現実の父は側にはいない、その父の影を追って大人の男の世界に入ってゆく、というのが、戦前から王道的な男の子成長物語の典型だったのだ。
思えば、わたしが最も好きな戦時中の映画、坂東妻三郎版の『無法松の一生』は、吉岡大尉の未亡人に密かに思いを寄せる松五郎が、大尉の遺児を、父親代わりとなって影から見守る話だった。
(戦後は正に、「父は大戦で死んだ」というパターン構造ができる)
戦前的父権の典型としてあちこちでパロディ化されてきた星一徹は、実は戦後1960年代、そんな父権など滅びかけた時期に創作されたキャラクターで、彼はなぜ家にいるかといえば、躰を壊して野球選手を辞めたから(復員してきた傷痍軍人!)である。
そう、戦前から高度経済成長期まで、父は家にいない事の方こそが自然でなかったか?
例えば『坂の上の雲』に登場する秋山好古は、晩婚で、常に満洲の戦場やヨーロッパの視察先を駆け巡り、家にいつかず、部下にはひたすら謹厳実直で厳しいが、それは生死を共にするゆえで、その反面、滅多にしか接しない子供にはベタ甘く、そして領事館駐在武官のような仕事も多くこなし滞欧歴も長いのに洒落た趣味など一切なく、生涯質素、しかし酒だけは馬鹿のように大量に飲んだという。
この騎兵大将は、決して家族を愛してないわけではないが、どうも軍務を離れた世界の人間である女子供と接するのに不器用で、男同士の結束の方が気が楽、という人物だったのではないか、という気がしてならない。
そういうのが、良くも悪くも「日本のお父さん」だったんじゃないかなあ、と思うのだ。