電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

永劫回帰

わたしの携わってる仕事は、『世界の神々』にせよ、『100字でわかる哲学』にせよ、先行類書は存在する。だが、だからムダな仕事をしているとは思ってない。
政治でも文学でもなんでも、すべてはやり尽くされている、歴史は繰り返すのみ、と、よく言われるが、まさにそう言われ尽くされても、なお繰り返しそう言われる。
かつての時代にも葦原骸吉のよーな男はいたろうし、わたしがこの世を去って後にもまた葦原骸吉のような者は現れるだろう。
しかし、それでは虚しくならないか? と、ツッコミを入れる者もあるかも知れない。そういう時にわたしが持ち出すのが、ニーチェ言うところの「永劫回帰」と「力への意志」(の都合良いインチキ解釈)というやつである。
つまり、全ては繰り返す、行き着く答えは同じ、グルグル回ってるだけ、であっても、まさにその過程を力強く生ききることにこそに意義がある、って考え方だ。
世にはゲームというものが多数ある、RPGでも格闘でも戦略シミュレーションでも、クリア目標はたいてい一つである。複数のマルチエンディングがあるパターンだって、要は、主人公キャラが勝つかゲームオーバーするかだ。
しかしそれでも、同じゲームの繰り返しプレイを楽しむ人間はいる、なぜか? つまり、このアイテムをゲットして使ってみたら? この技コンボを使ってみたら? といった「過程」のリプレイが面白くて何度もプレイする人間が多いのだろう。
何事も、必ずしも目的を果たす期待はしないが、過程でたまたま何か得られたら儲けもの、という希望は持つようにしている。

創造性とは何ぞや?

たとえば、エジソンは電球というものを発明した。が、その材料に使ったガラスや銅線などは、以前から存在していたものである。エジソンはフィラメントに竹繊維の炭素棒を使ったそうだが、竹自体は自然界に存在したもので、エジソンが造ったものではない。
つまり、無から有を作り出したのではない。エジソンは電気の光を効率よくガラス球に閉じ込める「方法」を、試行錯誤の果てに発明したのだ。
すべてはこういうことだろう。つまり人の世の「創造」とされるものは、「組み合わせ」「方法」の発見試行錯誤ってことだ。(創造性ある人間に育てたいなら、小っちゃい子に与えるのに一番良い玩具は間違いなくレゴブロックだ!)
そして、あらゆる「作る行為」は、結果もさることながら、その「過程」にこそ、固有の価値があるのではないか。
昨今マンガやアニメやゲームの論評で「○○は××のパクリ」論議を好む人間は多いが、んなこといったら、ではドストエフスキーカラマーゾフの兄弟』は、シェイクスピアハムレット』のパクリ、さらに『ハムレット』はソフォクレスの『オイディプス王』の話のパクリか?
共通してるのは「親殺し」というモチーフのみ、中身はそれぞれ、シェイクスピアの、ドストエフスキーのオリジナルだ。仮に着想がパクリでも、あれだけ長大な作品を書いた労力は、素人が簡単に「パクリ」の一言でバカにできるものではなかろう。

希望は過去にしかない

音楽や映画やTV番組はもとより、ネットのニュースまで、現在最新のものに眼を向けるより、過去のものに関心が行く場合が多い。しかし、これを後ろ向きとは思ってない。
「現在にはないもの」「現状を打開するもの」は、やはり、現在だけ見ていては見つからない気がするからである。
昨今の格差社会化や、またそれと関係してるのかも知れない、あからさまな差別意識の蔓延は、「これまでの戦後日本は平等だった」という前提あってのことだ。
最近、明治期と江戸期を研究する必要を感じている。いま眼の前にある貧富の格差や差別がある時代をどうマシなものに持ってゆくかのヒントは、富めるものがノーブレス・オブリジェを持っていた時代、不平等でありつつ、多様な階層が共存しえた時代、を振り返ることにしかないと思っているからである。

人も獣も天地の虫(by山田風太郎)

『100字でわかる哲学』の仕事の時に調べたことだが、宗教改革のルターやカルヴァンに言わせると、(全知全能のはずの神の前ではちっぽけな卑小な存在の)人間ごときが俗世の善行で救われるなど思うのはオコガマシイ、ということになるらしい。
では、救われるも救われないも神次第なんだから俗世では好きに生きてよい、とはならず、俗世では各人せいぜい自分の仕事に邁進しろ、ということでプロテスタンティズムが近代資本主義を生んだとされる。これもまた結果より過程を重んじた発想といえなくない。
もっともわたしは、人間サマのみを特別な神の被造物と見なすキリスト教の人間観は、なんかエラそうなので、すべての生命には悟りの可能性がある、つーか、人間も草木も虫も平等っすよ、というのが悟りの境地とした(オレ的大ざっぱ解釈の)仏教的生命観のほうが、なんとなく受け入れやすい気がしている。
ホントーにこの世に全知全能の神があってもなくても、人知外のことは幾らでもある。人間は、昆虫にだって見える紫外線や赤外線も感知できない。なんでもカントに言わせると、人間はあらかじめ決まった枠の中でしかものを考えられないそうである。しょせんは限られている、だから虚しい、というわけでなく、有限の中にこそ「組み合わせ」の可能性が幾らでもあるし、せいぜいそれを一生懸命に探すのが人間の知というわけなのだろう。

死者はいつまでも若い

何の偶然だか、昨年末から、数年間会ってなかった人と再会することが繰り返されている。
旧友で渡米することになった者がいたので、昨年末、その送別会があり、数年会ってなかった友人連中とまとめて会った。で、年が明けると親父の七回忌で四年ぶりに九州に行ったので、母親や兄貴や高校時代の先輩に会った。2月には以費塾の同窓会があり、3月初めにも、とあるイベントでジャーナリスト専門学校時代の某恩師などと再会してしまった。
結構といえば結構な話である。しかし、なんだか縁起でもないが、ちょっと、親父が末期癌の頃、数年来会ってなかった人間が(東京に行ったきりのボンクラな次男坊、つまりわたしも含め)次々訪ねてきたので、親父も薄々死期を悟った、というエピソードを思い出してしまった。
するとまさか、俺の人生も〆に掛かったのか? 冗談ではない、やりかけの仕事だってまだある。が、36歳といえば人生半分は終わったと考えねばならない、とは、ときどき思う。
以前も書いたが、わたしは精神年齢が23歳ぐらいで止まっている気がしているがこれは若いという意味でなく、ずっと定職について責任ある地位に就いたり、また結婚して妻子を養ったりしてないから、要するに進歩も発展もなく「現在」がダラダラ続いてるだけ、ということだ。時間をムダにしてるようで、時々反省する。
だが、逆から照らし出すと、そんな停まった人間でも、いつかは確実に死ぬ、死があるから生がある、そう考えたら生命は大事にせんといかんなあ、という気にもさせられる。
永遠に現在が続くのでは、生というものありがたみがないではないか。

あの時ああすれば

SFとかで並行世界というネタが時々ある。『銀河鉄道999』で、鉄郎が、別のメーテルに連れられ別の999に乗った別の少年と出会う話なんかがいい例だ。
現状の自分以外の可能性を考える。中高生当時は「俺の将来はどうせ刑務所か精神病院」とうそぶいた時期もあるが、これは、マイナスの意味でも「俺はフツーではない」と気取った、逆説的なうぬぼれだ。実際、それから20年、死なない程度に小市民を続けている。
九州在住のままの可能性、勤め人を続けてる可能性、リタイアの可能性など、いろいろ考えたが――結局、なんか結果的に、すべては必然であるという気がしてきた。