電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

死者はいつまでも若い

何の偶然だか、昨年末から、数年間会ってなかった人と再会することが繰り返されている。
旧友で渡米することになった者がいたので、昨年末、その送別会があり、数年会ってなかった友人連中とまとめて会った。で、年が明けると親父の七回忌で四年ぶりに九州に行ったので、母親や兄貴や高校時代の先輩に会った。2月には以費塾の同窓会があり、3月初めにも、とあるイベントでジャーナリスト専門学校時代の某恩師などと再会してしまった。
結構といえば結構な話である。しかし、なんだか縁起でもないが、ちょっと、親父が末期癌の頃、数年来会ってなかった人間が(東京に行ったきりのボンクラな次男坊、つまりわたしも含め)次々訪ねてきたので、親父も薄々死期を悟った、というエピソードを思い出してしまった。
するとまさか、俺の人生も〆に掛かったのか? 冗談ではない、やりかけの仕事だってまだある。が、36歳といえば人生半分は終わったと考えねばならない、とは、ときどき思う。
以前も書いたが、わたしは精神年齢が23歳ぐらいで止まっている気がしているがこれは若いという意味でなく、ずっと定職について責任ある地位に就いたり、また結婚して妻子を養ったりしてないから、要するに進歩も発展もなく「現在」がダラダラ続いてるだけ、ということだ。時間をムダにしてるようで、時々反省する。
だが、逆から照らし出すと、そんな停まった人間でも、いつかは確実に死ぬ、死があるから生がある、そう考えたら生命は大事にせんといかんなあ、という気にもさせられる。
永遠に現在が続くのでは、生というものありがたみがないではないか。